95年。3か月ほどで、某テレビ局主催のシナリオ賞用の脚本(200枚くらい)文學界新人賞向け小説(80枚くらい)、サンダンス国際賞向け映画シナリオ(200枚くら)、失われたけど少女小説(200枚)くらい書いて、脱力して秋を迎えた。
それまで休んでいた分を取りかえすべき(お金ですね)、頼まれた仕事は全部やった。民放の特番、高齢者向け再就職あっせんビデオ、中学生を取材するミニ番組。文句言わずにどんどん撮っていった。いつものちんぴらテレビディレクター生活に戻ってみると、なんら世界は変わっていず、永遠にこの時間が続くような気がした。小説やシナリオを書いていることは誰にも言わなかった。このまま時間が過ぎれば、なにもなかったことになる。それはそれでいいと思うようになっていた。
最初の吉報は、学生の頃の友人と飲みに出かけようとしていた夜のこと。
彼も離婚したばかりでへこんでいて、お互いの不遇な人生を嘆きあう約束だった。出がけに鳴った電話をなんとなく取った。電話の相手は、文藝春秋の社員を名乗る女性だった。咄嗟に思ったのは、「怒られる!」だった。
あんなつまらない小説を送ってもらっては困る、送り返したいと言われるのだと思った。ちょっと考えればそんな電話がわざわざかかってくるはずはないのだが、書いたものに全く自信がなかったので、そう考えたのだった。彼女は(その編集者ですね)、新人賞の最終選考に残ったことを教えてくれた。
その日の飲み会が祝勝会に変わったのは言うまでもない。その友人は某出版社に勤めており、最終選考にひっかかったことをとても喜んでくれ、編集者との付き合い方や今後について教えてくれた。彼は言った。
「もし、日本に文壇があるとしたら、それは文藝春秋をさすのだよ。そこからデビューできることはもっとも幸運なことなのだ」と。
深い意図があって送ったわけではなかったが、そう言われると運命のように思った。それじゃあ、A賞を目指しましょう。
私の出身大学はパンを投げればブンガク好きに当たるようなところだったので、作家になりたいようなひとはうようよいた。すでに作家ふうのひとさえいた。だけど、同級生の誰一人そうはならずに30代の半ばを迎え、村上巨匠春樹先生がおっしゃるように「文化的雪かき」のようなマスコミ業界でクリエイティブのようなものを量産していた。(もちろん、私も)
幸運は続く。翌朝、飲み過ぎて、大切な高齢者向けビデオの打ち合わせに寝坊し、担当プロデューサーからこっぴどく怒られたが、その数日後には、サンダンス国際賞からも最終選考に残ったという知らせを受けた。その時点で3つ応募して、2つ返答が来ていた。
浮かれついでに、知人からすすめられた漫画の原作と映画のシノプシスに対する賞にも、原稿を送った。これは、ずいぶん前に書いたものをほとんど手を入れずに送ってしまった。その頃には、送れば入選するものだ、という妙な自信がついていた。この賞もいずれ、最終選考に残った、という連絡が来た。
こうして、各賞の最終選考の日が近付いてきたのだった。
(以下次号)
写真は逗子の拙宅からみた、相模湾の夕日。
このまま海に沈むのかと思いきや、遥か先には、伊豆半島が隠れており、ぎりぎり太陽は山陰に沈む。稜線に太陽が欠ける前のもっとも美しい一瞬。