すでに、日本におりますが、ハワイでの初サーフィンについて、少々。
逗子の拙宅からは相模湾が見渡せるのであるが(はい、自慢です)、日頃、サーファーの姿を目にしていると、なんとも優雅で楽しそうで、これなら私もやってみたいと思っていたのである。彼らはひがな波を待っている。波と言っても湘南であるから、
日本人みたいに奥ゆかしく、自己主張の少ない穏やかなものである。彼らはボードに乗ったまま、ゆらりゆらりと波間を揺れているのである。
おかげで、サーフィン=優雅でのどかなもの、大地と(地球との?)交信、
というスピリュチュアルなイメージが出来上がっていたのであった。
が、さすがにサーファーの聖地、ノースショアで、サーフィンやろうとは思わなかった。私の身長(約160センチ)は優に超える大波が容赦なく、打ち付け、波打ち際でさえ、少年少女たちが波に巻き込まれている。ちょっとやそっとの気持ちでは海に入ってくれるな、と言わんばかりの激しさである。
そこで、ワイキキのサーフィン教室に申し込む。初心者であると伝えておけば、まさかノースショアのようなところへ行くまい。慢心であった。
サーフィンインストラクターのお兄さんたちと降り立ったのは、東側のビーチ。名前解らず(それを記憶する余裕もなかったのだ)。
ノースショアと負けず劣らずの波が立っているでないか。
え、ここで?と迷っている間もなく、地上でのイメージトレーニングが始まる。
サーファー兄さんの号令に従い、パドリング、脚をすべらせる、腕で支えて立つ、の繰り返し。これだけですでに、息が上がり、体温が上昇し、死にかけるのである。
が、兄さんたち、「さあ、海に行こうぜ」と誘うのであった。(って授業です)
これがまあ、大変だったの、なんのって。優雅に波待ち、なんてものはない。
「とっととパドリングせんかい」(原文英語)というサーファーにいさんの合図で、にいさんと波に後押しされ、スタート。腕で体重を支えて、脚を滑らせ、さあ、立とうかな、なんて迷っている暇に、こっちの思考より早い速度で波が押し寄せ、無惨、海中のひととなるのであった。
洗濯機の中の洗濯物のごとく、海中で回転した挙げ句、ようやく、ボードをたぐり寄せ、顔を波間にだす。すると、遥か遠方で「おい、こら、大丈夫か」とまるで犬に呼びかけるがごとく、サーファー兄さんは手を振るのだった。
そして、ふたたび、パドリング。「次はかならず乗れよ、まぬけ」と兄さんに言われ、(ウソ。ほんとは、アメリカ人らしく、you can do it!とか言ってたが、私にはそう聞こえたんです)波の上のひとを目指すのだった。
自慢ではないけれど、小学校から高校までの12年間、私の体育の成績はずっと「2」だった。(当時は五段階評価だったのね)。つまり、およそ、運動能力がなく、ついでに体力もない。そんな私が、サーファーの聖地ハワイで、スピリュチュアルな体験もなにもあったものではない。生きるのに精いっぱいという状態だった。
そして、結果はかつて経験したことのないほどの激しい筋肉痛。
サーフィンは上半身80%と言われ、この細い腕で全体重を支えるわけだから、肩と腕の痛みははんぱではない。
激しい痛みは帰国後も続き、己のあさはかさを呪うのであった。
ところがね、筋肉痛も去り、数日が過ぎると、違った感情が生まれてきたのだった。
それは、
「サーフィンやりたい。また、振り落とされて、波にぐるぐる巻きにされて、めちゃくちゃにされたい」
という思いで、日に日に募るのである。痛いのは最初だけ、ほら、だんだんよくなるでしょ(ってなんの事やら)そんな気分。
今から、次はいつ、サーフィンできるかなとばかり考えている。
(一応、こちらの名誉のために言っとくけど、同じレッスンに参加していた20代男子のジャパニーズは、サーフィン教室始まって、数分で波酔いされ、リタイア。100ドル近くもレッスン料支払ったというのに、ずっと日陰で寝てました。もちろん、同じく参加者の20代女子ジャパニーズは、後半すっかり波を乗りこなし、いっぱしのサーファーになってましたので、できる奴はできるんだけど。)
ま、この年齢では健闘したってことで、自分を慰めているのである。
ああ。また行きたい!