山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

ぶたれた犬

実は今、小説を書いているのですが、毎日いろいろ悩む。
これでばっちりだ、と思っていたことが始めてみるとそうでもなく思える。
こんなんじゃだめだ、と思って投げ出して、翌日読んでみると案外イケてたりする。
こんなことを毎日毎晩、四六時中やってます。

で、悩んだ時はいろんなひとに聞いてもらう。
こういう内容なんだけど、どう思う?
この主人公って魅力的かな。
だけど、ここで少しはびっくりさせたほうがいいと思わない?
もう、親しい友達は、見たこともない小説の話ばかりされるので、敬遠ぎみです。
でも、つきあってくれる。
(それはそのお話が面白いからか、私への友情か同情かわからないけど)

けれども当然、結論を出すのは自分なので、最後は自分に戻ってきますねえ。
ってなんの話でしたか。

えっと、ぶたれた犬。
こんなふうに迷ったり悩んだりする時、やはり一番聞いて回るのはその道のプロの人たちです。
何事も先達に聞け!です。

けれども先達といってもみんな偉い作家なので、知り合いじゃないし、そもそも生きていなかったりするわけですね。
でも、大丈夫。
彼らの言葉はきちんと残っている。
それが本っていうか小説ですよねえ。

それで、尊敬する作家の小説にあたります。
誰のなににあたるかはまた今度。

けど、「ぶたれた犬」は高橋源一郎さんの「一億三千万人のための小説教室」が出典。
前に読んだ時は、それほどびっくりしなかったけど、今回はなんだかすごく救われました。
それは今までは書きたいものを好きなように書く、っていうのが自分にとっての当たり前のことだったから、それがどんなに気持ちのいいことかわからなかった。今度は、なまじっか一冊本を出してもらって、もっと売れるにはどうしたらいいかとか、もっとひとを惹きつけるテーマはなにかとか、下品なことばかり考えるようになって、わけがわからなくなっていたから、こういうストレートな本が効いたんだと思う。
正直、読みながら泣きました。

「ぶたれた犬」はその中に出てくる。
もとはケストナーという作家の「エミールと探偵たち」にあります。

いわく、小説は書く、というより、つかまえるもの、である。
浮かび上がった思いつきや記憶をつかまえて、大切に育てる。
この「浮かび上がった思いつきや記憶」は小説のたましい、みたいなもので、
それで、「ぶたれた犬」のように臆病だから、ゆっくり近づかないとしっぽを巻いて逃げてしまう、と言います。

「ぶたれた犬」
それが小説のたましい、というけれど、私など、自分自身が「ぶたれた犬」の気分で毎日過ごしている。
いったい、いつ、誰にぶたれたわけでもないのに、勝手に「ぶたれた」と思い込んでいる。
けど、どうしていつも「ぶたれた」気分なのかな、と思うわけです。

誰もあなたをぶとうなんて思ってないのに。
でも、朝起きるともう、ぶたれたような気持ちになっている。
なぜ?

ぶたれた犬と仲良くするのがどんなにたいへんかは、ほんとに犬と暮らしているからわかります。

それでも今、わたしの「ぶたれた犬」にそっと近づいて、「怖くないよ、こっちもぶたれたばかりだから、そっちの気持ちもわかるから、おいで」ってそっと呼んでます。

どこまでいけるかな。