山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

練度の高いウソとほんと

30日づけの「ほぼ日」を読んでいたら、
山田ズーニーさんのコラムに、練度の高い正直さについて書かれていた。とても、心を打たれた。

「練度のたかい正直さ」とは、もともと司馬遼太郎先生がおっしゃったコトバであるそうだが、簡単にいうと、正直なことは大切だけど、ただ単に、「俺はこう思う」とか「アタシはこうしたい」と気持ちのままにいう正直さではなくて、深く深く考えた末の正直さを求めなさい、ということだった。

そうだよなあ、としみじみ納得した。
私はどちらかというと、正直なたちである。気分がすぐに外に出やすく、嫌いなひとにニコニコできないし、相手が偉いひとであっても、尊敬できないと、そういう態度になってしまう。このようなわけで、世間を渡るにあたって、たいへん、苦労を重ねて来たわけであるが、果して、わたしの正直さとは練度の高い正直さであったろうか。否。全然。

自分の気持ちに正直であるというのは、今でも大事なことだとは思うけど、正直ならなんでも許されるのかよ、とつっこまれるとイタイ。自分の気持ちに正直であるというのは、見る人が見ればわがままなだけだったりする。

ところが、ズーニー先生がおっしゃるように、自分の正直さをきちんと洗って、ほんとにそうなんだな、と徹底的に審議(自分のなかで)した後に、提出した正直さであるなら、きっとひとさまを傷つけることも少ないのではないかと思うのだった。

そして、これはもしや「ウソ」に関しても同じことが言えるのではないか。
徹底的に練った嘘であるなら、それを突き通す鉄の意志があるなら、その嘘がひとを傷つける度合いは減り、なおかつ、どれが本当だかわからなくなるのではないか。

行き当たりばったりの、軽い嘘はすぐに見抜かれてしまう。自分を守るだけのその場限りの嘘をつくひとは多い。
だけど、嘘にしても、考えて考えて、ひねり出した嘘なら、そう簡単に見抜かれないし、見抜かれたとしても、その背景にある熱のようなものによって、案外腹も立たないのではないかと思うのだ。

結局、大切なのは、そのことについて、どれくらい考えたか、練ったかってことになる。
小説などは大きな嘘であるけれども、それがひとさまの心を打つのは、考えて考えて練り上げた嘘だからである。その嘘のなかに、多分、ひとを振るわせる本当がすべりこむ。

そんなわけで、練り上げることの大切さに感じ入ったのでした。