山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

一匹の犬のようなわたしの人生

PHPスペシャルという雑誌で、「女の武士道」というエッセイを連載している。そんでもって、本日、その原稿を書くために、武士道についての資料を読んでいた。このエッセイをかくまで、武士道ってものを全然まったく知らなかったので、お勉強が必要なわけだ。資料になる本をPHPの担当編集者の方(京女さん)から頂いており、いろいろ調べてから書いているのだ、これでも。

で、資料を読んでいて突然ひらめいたんだよなあ。でも、そのひらめきは、エッセイに書く種類ではなかったので、ココに書く。エッセイは、やはし、女性の生き方についてだから。
ひらめいたのは、次のような内容だったから。

21世紀の日本で、真に武士道を実践している者は誰か?

と考えていたら、ぴったりの者が浮かんだ。武士道そのものを生きている者たちの姿が。
エッセイでは「女」こそ、武士道の実践者ってことで書いているけど、女よりももっとねえ、武士道が似合うものたちがいたんだな。

なぜなら、そのものたちが私の目の前にいたのでした。

はは。勘のよいかた、わたしという人格に詳しいかたなら、すぐわかると思うけど、
21世紀、もっとも武士道を実践しているのは、そう、犬であった。はい、犬、ドッグ、
ロシアではサバーカ、イタリアでカルネ(だっけ)でした。

だってさあ、忠誠心ってことでいったら、飼い主に向ける犬の心の強さに勝てる者はいないと思うよ。どんな純愛中のカップルが見せる愛より、犬の飼い主にむける愛のが強い。やつらは飼い主のためなら、ものすごい勇気を発する。さらに、やつらは一度受けた恩を決して忘れない。(臭いで覚えているのね)そんでもって、やつらは裏切られても決して恨まない。ほんとに無心に飼い主を信じているんだな。

やつらはだから、体に爆発物を巻き付けられて、それが自分を死に至らせるとも知らないで、訓練してくれたひとの命令で、どこまでも走って行くのだ。それを無知と呼び、笑うひとは笑えばいいと思うけど、私は決して笑いたくない。

あの無心さ。
「マイライフ アズ ア ドッグ」というスウェーデンの名作映画がある。これは、自分の不幸な身の上を、ソ連の宇宙船に実験のために乗せられたライカ犬に託して描いたせつないせつない物語である。


主人公の少年は、たった一匹で決して戻って来れない宇宙船に乗せられたライカ犬の気持ちを想像する。わけもわからないうちに、宇宙にほおりだされる、彼のさびしさ、こわさを思う。

また、主人公の少年はシッカンという名の犬を飼っているのだけど、母が病気になり、父がいなくなり(事情が今ははっきりとは思い出せないけど)、とにかく、世話をしてくれる親がなく、親戚に預けられる。その時、シッカンは保健所(ようするに、引き取り手のない犬を始末する施設)に連れて行かれてしまう。少年は、はじめ、そのことを知らされていない。親切な誰かがシッカンの世話をしてくれているのだと思っている。

ところが、少年の友達が本当のことをばらしてしまう。「シッカンは保健所で殺されたんだよ」
少年は、シッカンのことを思って涙する。シッカンに会って伝えたいと思う。自分は知らなかったんだって。必ず迎えに行こうって思っていたって。それでもシッカンは僕を恨むこともせずに、大人しく殺されて行ったんだろうなと涙する。

そうなんだ、犬ってそうなんだ。
さっき、直木三十五の「水野の武士道」って小説読んだんだけど、これに出てくる、みすみす殺されにいく町民上がりの武士なんて、犬のそのものなの。犬の優しさ、諦めのよさ、自己犠牲のかたまりなの。

自分を守るためなら、平気で嘘をつき、ひとを売ることをいとわないひとばかりの世界で、だから、いつも犬に気持ちを寄せてしまうのかもしれない。

やっぱり、自分なりの正義を信じて、ひとを売るようなマネをせずに生きて行きたいな。
犬ように、武士のようには、厳しくできないかもしれないけど、正直でいたい、真っ当でいたい。
武士道の教えが心にしみる夜。