山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

目の覚める思い


写真は、下のマリーナに並んでいるクルーザーさんたち。
一度、船を借りて海に出たいけど、「お盆の間は水辺に近付いちゃだめ」と、信心深いひとから強く言われ、そう言われてしまうと、腕に自信がないので、そうそう、船出できないのだった。

そんなわけで、今日も昼間はちょっとだけ泳ぐ。夜は、北鎌倉まで懐石料理を食べに行った。この店については、おいおい。

夜は、「朗読者」というドイツの小説を読んだ。知っているひとは知っている話題作だと思う。95年に出版されるや、20か国で翻訳され、アメリカでは200万部のベストセラーを記録した小説だ。

なんで読むことになったかといえば、とても単純で読み終わった今では、その動機の愚かさに恥かしくなるほど。主人公の少年が15歳のとき、36歳の女性に恋をするお話と帯にあったからだった。

実は、自分も17歳の少年と27歳の女性との恋愛のようなものについて書いていたので、参考のつもりで手に取った。ほんと、失礼しました、って感じです。「年の差のある恋愛の話」なんて、あほらしい括りにひかれて手にした自分が恥かしい。

なんだろう。小説ってやっぱりこういうもののことを言うんだよなあとしみじみ思う。書かれるべきして書かれたもので、これまでの何ものにも似ていなくて、「恋愛小説」とか「戦争犯罪についての小説」とか「文字を巡る小説」とかいろいろ言えるかもしれなくても、どれひとつにも括られることなく、括られることを拒否しつづけ、「朗読者」という唯一の小説でしかありえないもの。

そして、常に物語が読むひとを裏切り続けるというか、決して、予定調和には進まなくて、もちろん、「わかりやすい愛情」なんてものにも収斂することはない。ひとへの思いを語ることに厳しさが貫かれている。

いつも思うけど、やっぱり、小説も時代や歴史と無縁であってはいけないと思う。民話や伝説は、いつの時代のどこの話か、関係ないかもしれないけど、小説ってジャンルは、時代性と批評性を失っちゃいけないと思う。そういう意味でも「朗読者」は、歴史についての批評性ももちながら、個人の説明しつくせない思いが交錯しつつ、分ちがたく、描かれている傑作だと思う。

最近の日本の小説の「軽さ」について考えていたんだけど、どこかで軽くたっていいじゃん、という思いもあったのが、「ほんとはマズイんじゃないの?」という気持ちにもなってきた。

なんだろう、そんな「軽いもの」を売れるからという理由だけで、「小説」と称して、大のオトナがうりさばいていることを、反省すべきじゃないかと思えてきた。

実は、世界レベルで笑われているけど、「売れる」からいいかって一部の下品なひとたちに支えられているだけだって事実を見ないようにしているのかもしれない。

と言っているそばから、自分に厳しくならなくっちゃね。