山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

究極の数字とは。

昨日、映画「容疑者 室井慎次」について書いたところ、普段の倍以上のアクセス数を記録した。ので、数字に弱いわたしは、本日も、この映画について書くことにしよう。この映画のキモのセリフは多分二つあって、ひとつは「真実をもとめる」ってことで、もうひとつについてはこの後すぐ。前段が長くなるけど気にしないでくれたまえ。

幼い頃から「数字」に弱い。「数字に弱い」とは「数学が苦手」とか「計算が嫌い」というのではない。むしろ逆。数学は生涯を通じてもっとも成績のよかった科目だし、大学受験ギリギリまで、ばりばりの理科系でもあったのだ。(それがなんで文学部へ進んだかは、今回ははしょる)

小学生のころは、五段階評価というのがあって、要するに、通信簿に、1から5までの数字で成績が評価されていたわけだ。まず、ここから「数字」による支配が始まる。でもって、次は、中学受験をしたので、公開模試における順位などによって、ますます「数字で評価される」ことに慣れて行く。

もともと、性格が子供らしくなく、友達が少なく、家族にうとまれて育ったので、「素直」だとか、「子供らしい」という、こちら側から見たら、曖昧な基準によって評価されるより、無色透明である「数字」によって勝者になれるのは、子供ながらに心地よかったのである。「数字さえとっていれば、文句はいわれない」というまるで、テレビ制作者における、視聴率に対する感慨のようなものを、かなり幼い時に獲得した。

さらに、小金持ちのお嬢ちゃんが集まる私立の学校に進んだことにより、「数字」信仰は強化される。その世界では「お金持ち」と「美貌」が一番偉かったから。でもって、再び、大学受験で偏差値による洗礼を受け、就職したテレビ業界はもちろん、「視聴率」という数字の王様が君臨していました。

話が長くなりました。映画にもどらなくっちゃ。昨日は、この映画は上層部の権力争いに関するお話です、と書いたけど、それが大筋としたら、脇線にあたるのが、「数字」でしょ。
でもって、「究極の数字とはなにか」ってことです。はい。よゐこはみんな知っている。究極の数字とは、「お金」です。お金こそが、幼いころから、ならされてきた数字による評価の究極版です。

そして、この映画ではそれをさす黄金の言葉が語られるわけです。 いわく「真実はお金にならない」
つまりさ、全ての評価の頂点にたつのは、「お金」という数字なわけでした。ちゃんちゃん。今さら、当たり前すぎて、驚くほどのこともないですね。

しかし、私は、「お金じゃないよ、心です」とは言えません。なぜなら、数字によって、いっぱい救ってもらってきたからです。例えば、女性雑誌の編集者には女性が多いです。主な視聴者が女性であるところのテレビドラマのシナリオライターは、女性が年々増えています。これはどうしてか。答えは簡単。女に作らせると、数字をとるから。(テレビなら視聴率。雑誌なら販売部数)

今をさかのぼること、20年くらい前には、各地の職場に女性は極端に少なかった。けど、女性にやらせると儲かるって事実が発覚するにつれ、「プライドより数字」ととった男性為政者たちは、女性を器用したのでした。

数字ってやつらは、無色透明だから、逆転劇を仕込むこともできるんです。私が若くしてディレクターになれたのも、視聴率をとったからです。それで信用を蓄積していった。まさに「数字さえとっていれば文句を言われない世界」だったのです。

もちろん、映画「容疑者室井慎次」のなかでは、あくまで、お金という基準ですべてをきることへの居心地の悪さをうたっているわけですが・・。

しかし、真実を追い求めることを「よし」として描くこの映画は、それによって、興行成績をのばし、結果、数字を上げているわけです。映画のなかでつぶやかれる「真実はお金にならない」という言葉を裏切り、「真実も描き方次第、使い方次第ではお金を生む」ってわけ。

この映画をみて、室井さんの行く末を心配し、「やっぱり、お金じゃないよね」とうなずきあうひとたち、そう思っていただくことによって、「お金」をたくさん、制作者は頂けるわけですね。えー、まーこれ以上は語りませんが。