山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

手をつなぐのは悲しいことだ

昨日は、後輩の心あたたまる結婚式にすっかりやられてしまい、骨抜きになっていたのである。

日頃、「結婚なんて無意味な制度である」とか「純愛なんて信じない」とかいうことを延々書いている身であるので、なかなか「結婚式に感動した~」なんて言えないわけである。立場上。ってそんな立場もなにもないんだけどさ。

しかし、愛の現状というのは、案外、昨日の結婚式のように、すんなりと存在しているのかもしれない。新郎の男子は、類い稀なる誠実な奴であるけれどもね。

私たちは(って複数にしちゃだめだね)、わたしは、わたしこそが、マスコミの作る幻想に振り回されているのかもしれない。あるいは、とびきり、自分と関わったひとが悪かったのか。

いや、小説のテーマを選ぶ時には、二つの面が少なくともあるのかもしれない。「愛」というテーマを与えられたら、とことん、『愛」のよいところ、あまいところ、うっとりするところを書きたがるひと。(純愛小説ってこっちの方向ね)

で、もうひとつは、『愛」のほころぶところ、あやういところ、まぼろしなところなどを、親の敵か!ってくらい書きつくす方向。(私なんか、ずっとこっち)

まあ、POPミュージックでもですね、失恋をテーマにする曲と、恋がうまくいったヨロコビを歌う方向とふたつあるわけだから、小説も同じかな。

POPミュージックでいえば、失恋ソングが流行るときは、景気が良いときで、不況のときほど、わかりやすいラブソングが受けるともいう。小説にもあてはまるのだろうか。

案外、経済と売れる小説のテーマというのは相関関係があるのかもしれない。300ページくらいの論文つうか、新書になりそうではある。
「竿だけ屋の恋愛は、生協の白石さんの目ためが8割」
ううむ、小説書いてるより儲かるかな。

おっといけない。そういうことじゃないだろってなもんでした。このブログを見ていても、ストレートな恋愛テーマのサブタイトルをつけると、アクセス数が伸びるんだよなあ。

世界は善良なひとでできている。愛さえ手に入れば、OKだと信じて疑わないひとたちで。
わたしの好きな舞台に、鴻上尚史さんの『朝日のような夕日をつれて」と言う作品がある。
そのなかの一説。

たくさんのひとと手をつなぐことは、とても悲しいことだから。

この一行が好き。 ひとと手をつなぐことで、安心してしまう悲しさ。
そういう種類のことをどうしても考えてしまう。愛のなかに常に存在するはずの、亀裂について。

けど、今はわかりやすい文章で、わかりやすい恋愛を書いているのだった。
タハ。
どこまでいけるのだろうか。