山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

ラスベガス、市場原理、絶望ってところ。

WOWOWで、CSIの一挙放送をやっていたので、つい見てしまう。

初期のラスベガスが舞台のシリーズ。この後、CSIはマイアミ、ニューヨークと舞台を変えつつ、科学捜査ってやつを展開していくんですけど、ラスベガス、マイアミ、ニューヨークって並びが、もっともな感じでしょ。事件モノといったらロスかニューヨークという定番を、ラスベガスから始めるってところが、ずらしの上手さかな。

しかし、事件そのものはラスベガスじゃなくっちゃってほどのものは実は少ない。最初の頃こそ、ギャンブルがらみの話もあったけど、回が進むごとに、都市であれば、起こりうる犯罪になっていく。時折差し込まれる実景が、ラスベガスならではの、人工的でいかにも欲望渦巻く街って感じだけど。

科学捜査をうたい文句にしていて、いろんな機械で分析したり、PCで解析したりやってるけど、結局、捜査の段階では、床にはいつくばって、髪の毛とか皮膚の一部などを人間が拾ってる。どこまでいっても、手仕事ってやつはあるのね。(それも今にロボットがやるのかな)

橋本治の「乱世を生きる、市場原理は嘘かもしれない」を途中まで読んでいたけど、つい、テレビを見てしまった。「市場原理は嘘かもしれない」というフレーズにひかれたわけです。
(たぶん、多くのひとが惹かれたからベストセラーなんでしょうけど)

つまり、「市場原理は嘘であってほしい」「嘘だったらいいな」という気持ちがあるからだよね。すべてが「儲かるかどうか」の秤の上で決定されて行くので、いやになってしまうでしょ。

クリスマスケーキから大腸菌だかが検出された事件があったけど、届け出たのは、クリスマスイブが終わってからだった。つまり、一番売れる時期を逃すまいとしたんだよね。想像がつく。みんな、市場原理に飲み込まれて行き、それで仕方ないか、と思いつつあるから、「ちがうかもしれないよ」っていう意見が聞きたいんだよな。

でも一方で、市場原理の方が、おやじ社会原理より勝ち目があるからいい部分もある。とにかく「売れれば」オヤジから文句言われないですむ。おやじ原理は、わけわかんないから、勝ち目全然ないでしょ。おやじって自分達が論理的だと思ってるからさ。
昨日の続きだけど、つくづく、女のひとは絶望してるよね。クリスマスイブの夜に集まった美女たちを見てそう思った。みんな深い深い闇を抱えてる。たぶん、それは、今いる場所が決定的に苦しい場所なんだよな、客観的にどうあれ。

豪華なマンションも、ブランドもののプレゼントも、フレンチのディナーも、愛してるという言葉でさえ、ほんとはもうほしくないのではないか。そのからくりに気づいてしまっているのに、気づかないふりをしているのではないか。だって、それらを捨ててしまったら、いらないと言ってしまったら、あしたから何を信じて生きていけばいいの?

ずっとずっと、それを目標にしてやってきたんだから。それに実際、「愛してる」といってくれる男がいると、すこしは救われた気持ちになったりもするんだよね。(あくまで少しだけど)そのわずかの希望をひろい集めて、そっとそっとやってきたわけだけど、急激に面倒くさくなったりするんだよ。

だけど、だからといって、ひとりでこの荒野を歩いていけるのかしらと。

あ、はなはだしく話がずれた。

どうしていいかは、わたしもわからない。自分も同じところにまだいるような気がするからね。
とほほ。

答えを探して今日もまた、本でも読むのでした。