山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

小説家と脚本家の違い



カーテンの下の妖精。(夜なので、光量が足りなくてピンぼけで失礼)

今日は、脚本家・橋本忍著「複眼の映像ー私と黒澤明」を読む。(まだ、途中だけど)いやあ、面白いです。自分は脚本も書くし、一応監督もするし、小説も書くので、どのようにして、黒沢映画の脚本が作られていったかを知るのは、勉強にもなるし、それだけじゃなくて、読み物としてもたいへん面白い。

黒澤明も橋本忍の師匠である伊丹万作も、シナリオの基本は、テーマであると言っていて、これは、私が、長い長い間、脚本を書くときに教科書として読んできた、ハリウッドのシナリオライター、シド・フィールドの「シナリオ・ライターワークブック」に書いてあることと同じなんだよなあ。非常に合理的。設計図のようなものだから、基本があって、どんなシナリオもその基本ができてないとダメだよって話です。

でまあ、そこらへんは、職業的な興味で納得しつつ読んだけど、もうひとつ、面白かったのは、脚本家と小説家の違いについて。どちらが偉いって話でもないでしょうけど、橋本氏いわく、「脚本家から小説家になったひとはいても、小説家から脚本家になったひとはいない」、つまり、脚本家のが、難しいのよ・・ってニュアンスもなくもない。確かに、小説家から脚本家になったひとって、いないよなあ。その逆はいっぱいあるけど。

一応、どちらも経験している身としては、脚本家と小説家の違いは、よおおくわかる。一見、似たもののように思われがちだけど、黒沢映画の時代はわからないけど、少なくとも、現代では、全く違うよね。求められる資質も内容も。

小説って、やはりものすごく自由だから、ひとことでいえば、誰でも書ける。小学生の書いた作文だって、「小説だ」と言ってしまえば、小説になる。が、脚本はそういうわけにはいかない。もちろん、誰でも書けるかもしれないけど、それが映像化されなければ、完成したことにはならないから、他人をきちんと納得させられないとダメだし、映画でもテレビでも、時間が決まっているし、制約がたくさんあるわけだ。

ことテレビドラマに関しては、もっともっと制約があるから、それらを成立させつつ、内容も面白くしなくてはいけないから、問われる能力が違う。脚本は、(黒沢時代は監督と)、今はプロデューサーと作るものだもの。そして、その先にも役者やカメラや美術さんがいて、肉付けされて完成に向かうから、共同作業の設計図なんだよね。

一方、小説は、これはもう孤独です。映画やテレビドラマであれば、50人近い人数(役者やスタッフを含めてね)でつくるものを、たったひとりで全部やるわけです。全部自分の思いとおりだから、楽しくて自由な分、失敗する可能性もあるわけで、辛いときはつらい。

そんなことを考えつつ、でも、黒澤明さんと橋本忍さんらが、箱根の温泉に籠もって、「生きる」の脚本を練り上げていくところなんかは、「いいな~」と本当にしびれるのでした。傑作が生まれる奇跡の瞬間だったんだなあって。

自分もまだまだですが、素直に「ガンバロー」などと思ってしまった。そう、明日は月曜日、締め切りじゃないか。とほほ。