山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

今更ですが、「ロング・グッドバイ」を。

今更ですが、村上春樹さん訳の「ロング・グッドバイ」を読んでいます。

村上春樹さんを知ったのは、自分が大学生の時、早稲田の文学部の生協で、「群像」新人賞をとった「風の歌を聴け」を立ち読みしたのが、最初です。最初の数ページを読んで、衝撃がはしり、すぐに購入し、次の授業・・なんだったか忘れたけど、それをさぼって、同じく文学部のラウンジで、一気読みしたことを覚えています。多くのひとにとって、さらに日本の文学史上にとって、そうであるように、私にとっては、「村上春樹」以後と以前では、小説というものに対する感覚が大きく変わってしまいました。

それまで一度も読んだことがない小説。にもかかわらず、まるで自分のことを書いてもらっているようなフィット感。そして、読んでいる間中、文章を読むという作業が快楽であることを教えてくれる文章。とにかく、打ちのめされました。その後も村上作品は続けて読んできましたが、どうも「ノルウエイの森」あたりから、リタイアし、「アフターダーク」くらいから戻りましたけれど、若い頃とはちょっと違ったスタンスで読むようになりました。

長々と何がいいたいかというと、「ロング・グッドバイ」を読んでいると、もちろん、これは、レイモンド・チャンドラーの小説ですけれども、村上春樹の文章を読む悦楽に浸れるんですねえ。いやあ、たまりませんわ。

「ロンググッドバイ」の翻訳あとがきで、村上春樹さんが、「チャンドラーの文章があまりに独特でなおかつすばらしいから、彼の文体をまねる作家がその後、たくさん出た」ということを書いてらっしゃいますが、村上春樹さんもそういう意味では同じですよね。この世には、村上春樹風の文体で書かれた小説がたくさんある。みんな、好きだから思わず、まねたくなり、まねたことを隠す気もないかもしれませんが、村上氏が、チャンドラーの文体をまねた作家は多いけど、形をまねただけで、文章の本質にはなんら近づいていないし、つまらない作品が多いと指摘されているように、これもまた、エセ村上春樹風小説に多く当てはまることです。

でも、まねるひとの気持ちわかる。自分も気をつけないと、すぐにまねたくなる。というか、いくつかの部分で無意識に入り込み、どこかしら似たような文章をすでに書いていると思いますけれども。ただ、確信犯にはなりたくないしな。

そんなわけで、久しぶりに、読む快楽にひたってしまって、あと5日間は小説書かないから、その間に読んでしまおうと思っています。じゃないと、影響受けちゃうからねー。自分みたいな文体のまだ定まらない、ヒヨッコ作家は(年齢は別として)、危険なんですよね、いろいろと。

夜は、「THE OC」というカリフォルニアが舞台のアメリカの人気テレビドラマのDVDを見ました。3回分。面白いよー。続きが見たいよー。しかし、これ、日本で最近やった某ドラマに設定似てるなー。事情は想像がつくけど、深くは考えまい。そのドラマ、最後まで見たわけではないからね、設定借りてもパクリとまでは言われないでしょう。

ちょっとご機嫌な夜でした。