山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

オトナになれない大人たち。

渋谷にて、「リトル・チルドレン」を見る。

アメリカのベストセラー小説の映画化。アカデミー賞の候補にも上がっているということもあり、期待度大ででかけた。舞台は、ボストンの郊外の裕福なひとたちの集まる住宅街。人気ドラマ「デスパレートな妻たち」を彷彿される。(どころか、かなり酷似したシーンがあるので、驚いた。この話は後ほど)。主人公は、裕福な家庭の主婦だが、ちょっと満たされぬ日々を送っている。そこへ、主夫をやってるハンサムな男がやってきて、お互い惹かれあい、うんぬんというお話。

この映画から学ぶことはいろいろあった。ひとつは、小説が原作であり、原作者が脚本に参加しているということ。(共同脚本の相手は監督)。う~む。原作者が脚本を書くことのデメリットが出ていたように思った。裕福な主婦の不倫の話ですから、「ボワリー夫人」を彷彿させるのはいいけど、だからといって、映画のなかで、主人公が、主婦たちの集まる読書会で「ボワリー夫人」を読み、その感想を朗々と述べるのはどうかと思った。ちょっと文学に詳しいひとなら、主人公の意見=「ボワリー夫人はフェミニストだったのよ」なんて意見にしらじらしさを感じるだろうし、「ボワリー夫人」のボの字も知らない人にとっては、あまり意味の通じないシーンではないか。

上映時間2時間半とたいへんながく、いらないシーンがたくさんあるように思った。読書会のシーンは、まずいらないよなあとか。たぶん、原作ではそこらへんのことがもっと詳しく書き込んであるのでしょうが、それを省いて映画にすると、時間ばかりかかって、あまり伝わらないという結果になるのだなと学んだ。小説としては大切だとしても、映画として独立させないとダメでしょーと思った次第。自分も自分の小説の脚本書いているので、同じ間違いを犯さないようにと肝に銘じました。

テーマ的には好きなお話なんだけど、なんともやるせない結末であった。原題の「リトルチルドレン」とは大人になれない大人のことらしい。結婚して、子供までいるのに、快楽をあきらめることができず、無責任に遊んでしまう…といったところか。

アメリカの主婦ってそんなに退屈なんだ~としみじみ。いや、日本でもそうなの?ニコタマあたりの主婦も方々もこんな感じだろうか。主婦にほとんど知り合いがいないので、よくわからないのだ。退屈だから、恋でもしようかって?確かに、そういうひとも多いんだろうなあ。午後、テニスレッスンに行く代わりに、適当な男と遊ぶってことか。

全世界レベルで、(って、日本とアメリカだけかもしれないけど)、恋愛の力って弱まっているのかな。恋愛に神秘性もかけがえのなさも感じられなくなってる?もはや、快楽を追いかけるためのアイテムのひとつってこと?そういうふうにお互いの不倫をとらえることのできるひとたちとは、そもそも、結婚もそれほどのものではないのではないか。というか、彼らにとって、人間関係そのものが、とてもうすっぺらいものだということ?それこそが、大人になりきれていない証拠なの?

映画には、不倫恋愛の傍ら、同じ地域に暮らす小児性欲者と彼を執拗に監視する、元・刑事が出てくる。この小児性欲者がらみのエピソードが、「デスパ」そっくりである。どっちが先かわからないけど、「おいおい、大丈夫か、ここまで似ていて」と見ていて焦りました。このような小児性欲者を描くということは、やはり、愛=性欲でしょってことを強調したいのかなあ。

「ボワリー夫人」や「アンナ・カレーニナ」は自分の長い間の研究テーマでもあったので、どうしても、見方が厳しくなる。正直、ちょっと食い足りない作品だった。