手作りチョコの憂鬱。
明日はバレンタインなので、ハートでおす。写真は、麻布十番のカフェのカプチーノ。ハート、かわいいす。
さっき、著名なブログを読んでいたら、やはりバレンタインを話題にしていて、なかでほほうと思ったのは、「手作りチョコレート」について。市販のチョコレートを買ってきて、溶かして、せいぜい、生クリームを加えるとか、自分の好きな形にする程度のことで、それを「手作り」と言うな、とあった。手作りと言うからには、カカオ豆を取り寄せるところから、始めろ!みたいな。
同様に、「得意料理はカレーです」と言って、野菜や肉を切って煮たものに、市販のルーを加えるだけなら、「手作り」とはいえない、という提言だった。なるほどねー、そういう厳しい見方をすればそうかもしれない。じゃ、どこからなら手作りと言っていいのかも難しいところのような気もする。が、ちょっと、どうでもいいなーと思った。こういうテーマはつきつめない。つきつめたところで、ひとつもよいことはないと思うのだ。
さっき、保坂和志さんと小島信夫さんの小説を巡る書簡「小説修業」を読んでいたのですが、なかで、ひとつのテーマをあれこれ語っていると、ふと、小島さんが、「もう、この話は終わりにしましょう」と言うのだそうだ。結論はでていないけど、出ないままにしておく…というのがよいようなことを仰っていた。まったく、同感。とことん論じ合う…みたいなことが、一見、ヨキコトのように思えるけど、そうではない。たいていのことは結論なんてないし、(出ないのではなくて、ないのだ)、つきつめたところで、なにひとつよいことはない。
「つきつめない」という姿勢は、人生が大変だったときに学んだ。離婚騒動の渦中にあったとき、自分でもどうしていいやら、なにが正しいのか、誰が大切なのか、わからなくなった。あるとき相談にいった、某センターの女性相談員(高齢で白髪の女性だった)は、やさしい笑顔で言ったのだ。「つきつめなくていいですよ」と。この世には結論の出ないこと、どっちが正しいかなんてわからないことだらけですから、わからないことは、ほっておきましょう。なにも解決しなくてもいいじゃないですか…。と言われた。
たいへん、救われた思いがした。…と、手作りチョコからずいぶんと思い話になってしまったけれど、だから、「手作り」かどうか、つきつめなくていーじゃんと思う。(もちろん、商品の場合は、いろいろ問題でてくるけど)。ついでに、「スキかどうか」もつきつめなくていーじゃんと。ひとにはいろんな感情があるけど、「好き」などのような好意的感情は、大切にしたほうがよくて、多少不安があっても、良い方をとるというか、おおざっぱに好きならすすめ!と思う。それほどじゃないから、やめておく、とか、もっと本心から好きといえるひとを待つとか、そういう姿勢もありとは思うけど、これもつきつめすぎのような気がする。
恋愛ってそもそも、そんなに大それたものじゃないんだから、突き進むのがよいと思うなー。というわけで、バレンタイン擁護派なので、(企業に踊らされているという指摘は理解しつつ)、喜んで踊ればよしと思うのでした。どうせ、この世は、どう生きたって、企業に踊らされるように出来てる。その仕組みから自由になれるひとはいない。自由になりたかったら、無人島でひきこもるしかないでしょう。(それでも自由になれないと思うけど)。
だから、どうせ、踊らされるなら、楽しいことで踊らされたらいいと思うのでした。ちょっと、わたしは、最近、踊らないけど。
というわけで、明日はバレンタイン。クリックしてくださいねー。