山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

カナ、生き続ける。



今日のカナ。

今朝は、午前10時に動物病院に行きました。午前10時に起きられるはずがないので、飼い主は徹夜です。で、点滴の管をとってもらい、心音を聞いてもらったり、血圧を測ったりして、とりあえず、かわりなしということで、早めに帰ってきました。

いつもこの獣医さんに行くときは、カナの治療の間、近所の商店街をうろうろするのを楽しみにしていた。すっごく気に入っているパンやさんもあるし、大きな公園もあるし、輸入雑貨を扱う店もあるので、割とパラダイスで、大きなスーパーもあるので、ついでに食材買ったりもして、カナには悪いが、飼い主は楽しめるのだった。

が、今日はあっという間に診察がおわり、獣医さんも早く家に帰って休ませてあげたほうがいいといったので、そそくさと帰ってきた。その後、多少の、昼間ならではの仕事をして、(電話したりとか、バイク便のひとにゲラをあずけたりとか、出前の食器を出したりとか、そーゆーことですね)、それを終え、お昼頃、寝ました。今日はたいそう、天気がよかったみたいだけど、しょうがないよね。ドラキュラの血筋だからさ。

で、日の落ちた午後6時頃起床。太陽が昇ると眠くなり、陽が落ちると目が覚めるという生物あるまじき方向に進化(退化?)している。で、朝ご飯に近所で買ったサンドイッチを食べる。当初の予定では、犬の病院の近所のパン屋のパンを食べられると楽しみにしておったが、叶わず。まーいいけど。

で、今、午前2時です。はっはっは。なにをやってるんだろうねー。でも、これから朝の9時くらいまでがゴールデンタイム(ひとりきり)だからいーや。さっき、小川信夫の「抱擁家族」を読みました。うーん、前半面白かったけど、後半苦しかったなー。「家族」ってものに対する思いが、当時は強烈だったのだろうか、いいや、今も同じようなのか…と思った。家族なんて、壊れりゃいいし、そもそも、どーでもいい概念だろうーと思うのは、今だからか。

ひとつの家族がダメになっていく過程…なのかな。それは悲劇ではなく喜劇であると。ふむ。
しかしさ、最近昔のテレビドラマもdvdで見ているのですが、(「早春スケッチブック」by山田太一とか「冬の運動会」by向田邦子)、圧倒的にテーマは「家族」なんですね。主人公のアイデンティティも家族のなかの俺、もしくは、家族からこぼれている俺なわけ。でもさー最近のドラマって、すでに前提としての「家族」がないよね?せんだって、日本映画の批評会みたいなのに参加したときに、「青春映画なのに家族の描写がない」って意見も出てたけど、本当に、ドラマと映画のなかから「家族」消失した。それって、なぜだろう。

前に吉本龍明さんが言ってたと記憶するけど、(ちがっていたらごめんなさい)、ひとは、ひとりになりたがる…ってこと。古くは家族どころか「群れ」で暮らしていたわけだ。「村」とかさ。そういう集団じゃないと、生き抜くことができなかったわけでしょう。で、近代になって、村の力は必要なくなって、血縁だけの「家」になって、さらに核家族になって、今や、ひとりの「個」になった。これは、長い間、人類が望んだことではなかったのかって。ひとりがいーのよ、ひとりが。

恋愛問題やご飯問題(ようるすに性欲と食欲)はあるけど、基本はひとりが楽ですって選択が各地でなされているのではないだろうか。だから、「家族」をテーマにしたものが、あり得なくなってる。抜け出すもの、否定するものとしての家族はあっても、そのものを再生したり、新しく作り上げたいって欲望がすでにないのではないかしら。

(もちろん、市場には相変わらず、「家族の絆」をうたった作品があるにはある。そして、一部の読者や観客を集めているのも確か。が、この手の作品って、みなさんお気づきのように、どこかノスタルジックで、ありえないような、アマアマの仕上げになってる。これって、現実についていけないひとたちのための、慰め商品なんじゃね?バックラッシュともいうか。おっと、こころつつくと、恐ろしいからこのへんでやめりょう)。

ということで、ひとさまを批評できるほどの自分なのか、と問うことにして、このへんで。
これから仕事です。頭、冴えません。
カナバナをくりっとよろしく。