山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

わかりあえると思うなよ。

打ち合わせのあと、渋谷で「接吻」(万田邦俊監督)を見てきました。

以前、同じ監督の「UNLOVED」という作品を見て、良かったので、似たような空気を期待して行きました。それと、数週間前に会った、映画好きの友人から、「ここ、最近で見た邦画のなかで珠玉の作品」と聞いていたので、わくわくしながら出かけました。

「接吻」というタイトルから漠然とレンアイものだと思っていたら、おお、いきなり殺人事件から始まるのでした。おおざっぱなあらすじは、豊川悦司演じる殺人犯に、小池栄子演じる普通のOLが事件の報道を知って、自分は彼を理解できると思いたち、仲村トオル演じる弁護士を通じて、殺人犯と交流を始める…そのうち、どんどん惹かれていくといったようなものです。

ていねいに話がつむがれていくのですが、どうしても、なんでそこまで殺人犯に感情移入できるんだよ、おかしいんじゃなの?という気持ちが勝ってきます。特に数日前に「ノーカントリー」を見て、無差別殺人をする殺人犯って、常軌を逸しており、簡単に言えば、狂人なので、「理解する」とか「親近感をもつ」ことはあり得ないのではないかと、強く思うわけです。「ノーカントリー」の殺人犯は、目が完全にいっちゃってて、ひと目見ただけで、怖い、普通じゃないと思わせるだけの「へんなひと」です。それを理解したり、好きになったりできるのか?おお。

これが、無差別殺人ではなく、親族間とか、怨恨による殺人ならまだ少しは理解できる。ギリギリ想像できると思うのですが、縁もゆかりもない、なんの落ち度もないひとを家族ごと殺す…そういう事態に親近感を持つ…ということがやはりとても異様なわけです。

なので、終始「わからん」という気持ちに支配され続けました。が、すべてはラストシーンに隠されていたのでした…ってことだよなあ。ラストでやっと、殺人犯にシンパシーをもち、獄中結婚までする女(小池栄子)のことがわかったような気がするのです。

が、この映画のテーマは。「簡単に理解しあえるなんて言うなよ」ってことだろうか。殺人事件が起こると、犯人の心の闇をいろんなひとが解釈するけど、それに対して「ノー」と言い続ける物語なのだろうか。少なくとも自分はそう解釈し、「簡単にわかったなんて言わないです」と返事したくなりました。

が、映画を見て、数時間過ぎた今、う~ん、それでもわからないので、もっとわかりたい気持ちになるのだった。ううむ。でも、なんで接吻…。う~ん。

というわけで、謎にはまりたい方はどうぞ。平日の雨の夜にもかかわらず、最終回は8割ほど客席が埋まっておりました。

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今日の朝日の夕刊に載っていた、「愚かさが不幸の原因」という言葉にずいぶんと、はっとしました。不幸になる原因は二つあって、病気や災害などの「避けられないもの」ともうひとつは、人間関係とか愚かさ故に始まる不幸というわけです。不幸なのは、愚かだからだ…と言われたら、へこむでしょうが、とても納得できるお話でした。これはまた、後日。