山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

かつて本屋があった…。

「ほぼ日」を読んでたら、「ブログ文体」なる言葉があったように思う。(どのコンテンツだったか忘れたし、もしかすると、「ブログ文体」ではなく、web的な文体というよう意味だったかもしれぬ。詳細、ごめん)。

そこで、そうか、ブログ文体ってあるよなーと思った。自分もこうしてブログを毎日書いているが、小説を書くときとはリズムがちがうし、メールともちがう文体(っていうのかな)で書いている。そして、web上に並んでいる文章って、ブログ文体的なものがとても多いと思う。しゃべり言葉のような、友達へむけた手紙のような文体である。で、自分も毎日のようにあっちこっちのブログやhpの記事を読んでいるので、知らぬ間にこの文体に慣れている。そして、これが読みやすくなってる。

一方、昔から「本的な文体」というのがある。今、ミラン・クンデラの「不滅」読んでいますが、クンデラはとても、本的な文体だなーと思う。ブログ文体に慣れたひとは、「読みにくい」と思うのではないだろうか。そして、自分が「小説」と思って読んできた本は、この本的文体が多い。自分も好きだし、そのような小説を書きたいと憧れを持って生きてきた。

(もちろん、これまでだって、昭和軽薄体と呼ばれたような、しゃべり言葉のような文体で書かれた小説はあったけど、メインストリームではなかったと思う)。

ところで、最近のベストセラーになった小説を読むととても読みやすいものが多い。しゃべり言葉のような、話しかけるような感じの文章。絶対禁止だと思っていた、擬音も多用されている。ぐーぐー寝るとか、スイスイ走ったり、プンスカ怒っている主人公が多い。あーそーか。世の中のひとは、どんどん昔ながらの小説を読まなくなり、でも、ネット上でいろんなブログなりを読む。すると、読みやすく慣れてくるのは、ブログ文体になるのだなーと思った。よって、ブログ文体の小説のが好まれるのだな。

もちろん、専門家はこれからも、本的文章を読んでいくだろうし、仕事上の必要にかられて読むことになるひともいるだろう。でも、大半は「しゃべり言葉」のような文体が主流になっていくだろうなあ。人気ブログを読むと、しみじみそう思う。親しい友達に話しかけられてるみたいな感じがするのは悪くない。

えっと、前置きがものすごく長くなったが、このようにして、紙に文字が印刷された「本」はいずれ、めずらしいものになっていくんだろうなーとふと思ったのだった。本など買わなくても、pcか携帯でほとんどのものを読むようになり、ある特別の場合のみ、「紙に文字が印刷されてまとめてあるもの」=本を読むのだろう。さらに、そんなめずらしいものだから、「本屋さん」っていうのもめずらしいものになり、一部の好事家が向かう密やかな場所になるのではないか。そのほかは、「本」および「本に近いもの」をネットで買うことになるでしょう。まあ、すでに本はネットでばかり買ってるけど。

なんか、ドーナツ盤みたいなものになるのかな、本って。趣味のもの…みたいな。

あるいは、ネット上の内容をまとめたものを「本」と呼ぶようになり、誰もがそれを本として印刷(すでに、出版というほどの事業ではなくなり)するようになり、作家と言う言葉は変異するのかもしれない。そういう未来が遠くないような気がするな。

おばあさんになる頃、孫に(子供いないから孫もいないんだけど、一応、想定として)、

「私は若いころ、作家になりたくてねー、本を出すのが夢だったんだよ。だから、最初の本が出たときには、すごく嬉しかったんだよ。ほら、これがその時の本だ」

「へえ、おばあちゃん、本なんて、今誰でも出せるよ。私は幼稚園のときの絵ブログも本にしてるし、そもそも、いちいち本にしなくたって、たいていのもんは携帯かpcで読めるからいいじゃん。本なんで、がさばるし、重いし、邪魔なだけだよ。そんなもんに夢持ってたなんて、想像できなーい」

とこんな風に言われるのかもしれない。

って、いったい、なんの話を書いているんだか。

明日から再び、逗子にゆきます。春の宴会の準備です。海の宴会は久しぶりだな~。

ワンクリックで。