山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

モテる=善なのか。

「明日の広告」という本を読んだ。

大ざっぱな主旨は、こうだ。インターネットの登場もあり、消費者は変わった。かつてのような広告の作り方をしていても、消費者は振り向いてくれない。広告の王者だったテレビを見るひとは減っているし、ネットもあるし、だいたい、消費者は疑い深くなり、広告よりも口コミを信じるようになった。そんな時代にどうやったら、心を動かす広告を作れるのだろうか…。で、そのためのノウハウがいくつか書いてあった。

たいへんためになる本であった。自分が広告を生業としていたら、参考になるところがいっぱいあるように思った。だから、売れているのだろう。

が、しかし。

疑問も残った。それは、そんなにまでして、売らないといけないの?ってことであった。広告の方法を変えたら、前年比150%も売れた…とか、このキャンペーンをやったら、こんな効果があった…ということが次々書かれていたけど、「売れたらOK」といわれると立ち止まってしまうのだ。

もちろん、広告の使命はその商品の売り上げを伸ばすことであるから、当然といえば当然なんですけど。

ここで、売れる=モテると置き換えてみよう。自分も前半生、もてることに血道をあげてきた。で、少し前に、仕事で知り合った女子と飲んでたとき、はっとする事件があった。彼女はシングルで彼氏もいなかった。「さびしくないのか?」と聞くと、「さびしくない」という。「もてたいと思わないのか?」と聞くと、「もてたいと思ったことなどない」という。

これは、前にも書いたかもしれないけど、非常にびっくりする体験だった。そうか。もてなくていいという選択もあるのだ。確かに彼女自身、シングルで彼氏なしでも、ちっともさびしそうじゃない。男女いろいろな友達がいて、仕事が充実して、幸せそうだった。ふうむ。もてないといけないって心に縛られていた私のほうが、ずっと不幸であったかもしれない。

で、この広告の本を読んでいたら、その彼女のことを思い出したのだ。最近、広告は前ほど、モテなくなった。今一度、もてるためにはどうしたらいいかについて、書いてあったのだが、そこには、モテること=売れること=善だった。それが、消費者が望んでいることなんだけど…。

しかし、この世には、もてなくていいと思うひとがいること。

もちろん個人のモテ願望と広告の意義を比べることが間違っているけど、企業でも「必要以上に売れなくていい」というスタンスのところもあるのではないか…と思ったのだ。そういう企業も存在するんじゃないかな。

たとえば、ある町に小さなパンやがあり、おいしいパンを売っている。町に住むひとくらいの分だけ作り、それが売れたら店を閉める。そういう暮らしがあっていいのではないか。美味しいパンだから、宣伝をし、ネットで通販もできるようにし、日本中のひとがそのパンを食べられるようにする。その技術を生かした工場をつくり、コンビニでも買えるようにする。それは成功と呼ばれるかもしれないけど、そして、儲かって嬉しいかもしれないけど、町の小さなパンやの幸せとはちがうような気がする。

小さなパンやのままでいたいひともいるような気がする。

いやいや、そんなことを言っていたら、同じ町に巨大ストアができ、そこでもっと安くてもっとうまいパンが売られたら、負けてしまって店を閉めることになるよ!と言われるかもしれない。もっともだ。

でも。それでも、自分なりのパンを焼くしかないのではないか。ちがうか。

ネットで通販もひとつの道か。あ…わからなくなりました。

が、どうにも「売れる」=善から始まる話には、素直についていけない。自分が売れてないから?そう思われたらしかたないけど、なんか、ちがう。この「なんか」がまだ、うまく言えないけど。

自分がこれまで関わった、結果的にヒットした作品を振り返るとスタート時で、「売れよう」と目標にしていたものってないからだろうか。これ、面白いよねというところからしか出発していないからだろうか。

混乱した。失礼。