山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

バートルビー症候群

そんなわけで、引き続き落ち込み気味のわたしです。

現在、バートルビー症候群にかかってます。

えっと、バートルビー症候群っていうのは、大元は、「バートルビーと仲間たち」(エンリーケ・ビラ=マタス・木村榮一訳)という小説によります。

バトルビーというのは、ハーマン・メルヴィルの小説に出てくるバートルビーという事務員の名前に由来するそうですが、要するに、「書かない」あるいは、「書けなくなった」作家さんたちのことをさすようです。19歳で筆をおったランボーも、「ライ麦畑でつかまえて」で有名なサリンジャーもバートルビーです。この世には、才能もチャンスもありながら、書くことを放棄した作家たちがたくさん(たくさんでもないのでしょうが)、いるんですね。

「バートルビーと仲間たち」はそんな作家たちのエピソードを集めて、なんで、書かなくなったのかに迫る小説です。

で、この小説を読んでいると、「書く」とはなにかってことを突きつけられます。なかで、一番、しびれた箇所を引用すると…。

高次の芸術を作り出すことはできない、そう考えた男爵は人間的尊厳を失うことなくこの世界の不幸な呪術師たちの国に移り住む決意を固める。不幸な呪術師というのは、人を欺く魔法を使えば、わずかばかりの言葉をうまく並べて輝かしい本を何冊か書くことはできるだろうが、そういう本では宇宙全体とともに崩壊する高次の芸術を達成することはできないと分かっているので、言葉の魔法を使うことを放棄した人たちのことである。

ううむ。
私ごときがバートルビーを気取るのは、100年早いいや、未来永劫早いとは思うのですが、でも、いわんとすることは、骨身にしみてわかるんです。

上記の引用、わかりにくいかもしれないけど、自分なりの解釈で解説すると、

 それなりの言葉を並べて本を書くことはできるとしても、その作品が、高次の芸術…宇宙を崩壊させるほどの芸術を描けないなら、書かなくていいという選択をするひとたちがいる、ってこと。
彼らは、言葉の魔法をつかって、たくさんのひとを魅了する作品は作れるかもしれないけど、自分としてそれを容認できないなら、書かない…という選択をする…

って話だと思うわけでした。

つまりさーひどいもんなら、最初から作るなよ…ってことかな。今の時期、ものすごいイタイ言葉です。でも、才能的に下々の者である私は、やっぱり、「書いてみないとわからん」「作ってみないとわからん」って気持ちで、ついつい、何にでも手をだし、やけどを負っているのでした。

はあ。

しかし、ちょっと昨日・今日は、バートルビー症候群に入りました。ひどいもんは作らないに限るのではないか。…とか。

でも、学んだこともあるのかなあ。自分の直感を信じろ!とか?ダメだと思ったら、早めに逃げろ!とか?

しかしなー、今までの人生でわりと、「ダメだ」と思ったら、逃げてきたんです。おりてきた。が、今回は、流れに身を任せてみた。年をとった、大人になったってことだったのかなー。そうか、こういうふうに流していけば、けんかしておりるってことにならないんだなーと妙に納得してたけど、フタを開けたら、ひどいことになっていて…やっぱり、若い頃から貫いてきた、「ダメならけんかしてもやめる」態度が正しかったのかもしれない。

今更、ぐじゃぐじゃ言っても往生際が悪いですけどね。プチバートルビーに入りましたが、これでやめたら、あんまりじゃないか。自分のこれまでの脚本はもっとまともなのが、いっぱいあるし、まともな評価も受けてきたし、なにより、自分の小説に対して、逃げも隠れもしないでいかないといけないと思うのでした。

だから、めげずに、今夜から再び、書き物に入るのだ。バートルビーの仲間に入るには、まだまだ、全然修行も足りないし、まだまだ書いていきたいもんね。これしきのことでめげるな。ズタズタされても、あいつの一部は自分が生み出したものであることは事実だし(イタイ)。

アンチェイン マイ ハート!

傷みを抱えて、立ち上がれ!