山田あかねの一喜一憂日記

テレビディレクターをやりながら、小説書いてます。映画も撮りました。脚本なども書いてます。 本、買って下さいね。

真っ暗な海に船出するように。

テレビの仕事が終わって、一週間。すっかり生活時間がめちゃくちゃになりつつある。というか、もどりつつある。

昨日は、夜の9時くらいから友人と会食し、深夜2時頃帰ってきた。昼間、うたたねしていたので、全然眠くならず、DVDにて『再会の街で』という911のテロで家族を失って精神的におかしくなっている男と彼を助けようとする友人の話を見る。その後、朝の8時まで「家族の終わりに」を読み、やっと眠ったと思ったら、9時半からお掃除を頼んでいたので、ちょっと起き、でも、2時間くらい寝てしまい、お昼頃やっと起きて英会話に行って帰って来たら、ものすごく眠くて眠り、起きたら19時でした。めちゃくちゃだ。

それはそうと、昨晩みた、『再会の街で」について。

映画館で予告を見たときの印象とはちがって、わりと真面目にじっくり作ってある映画だった。簡単に男は回復しないし、この手のドラマに期待されるようなわかりやすいカタルシスはなかった。それはいいと思ったけど、厳しいなあとは思った。

精神的にたいへんなことになっているひとを、友人や恋人や家族が本当に助けられるのか…というテーマである。自分は新刊「まじめなわたしの不まじめな愛情」にて、薬物依存症にかかり、精神が壊れてしまった男との恋愛について書いた。私が書きたかったのは、「ひとはそう簡単には救えない」そして、救えないとしても、それもありじゃないか…というようなことだった。

が、最初に読んでもらった編集者は、「それじゃ、文學の意味がない。狂気でさえ、愛で救えるというようなことを描くのが文學であって、狂気は病気だから、救えませんでは文學ではない」と言われた。まあ、「死の棘」などはこっちのスタイルである。一生かけて、妻の狂気につきあうお話だから。

しかし。自分はどうしてもそうは思えなかったのだ。そして、助けようとして手を伸ばす自分のなかにある、いかさまらしさについて、考えずにはいられなかった。「再会の街で」の主人公も、自分の人生がなんとくうまくいっていない実感があるからこそ、昔のルームメイトを助けようとするのだ。彼に手を差し伸べることで、自分もなんらかのかたちで救われたいと考えているのだ。いや、もちろん、それはそれでいいと思う。けれども、精神的に追い詰められたひととつきあうっていうのは、きれいごとではすまない。自分もだんだんおかしくなるし、追い詰められてしまうし、特にシンクロしやすいひとは、(自分はまさにそうで、メランコリー親和型というそうだけど…)そういうひととつきあってしまうと、とことん、自分もそっちにはいってしまうのだった。

いわく、狂気は伝染る。

なので、安易に手を差し伸べて、「ほら、ひととひとが手をつなぐのはすばらしいよね」と言ってしまうストーリーがいやなのだ。そんなキレイごとあるわけないだろうと思うのだ。そういう意味では「再会の街で」は安易な結末はなかった。希望を予感させるカットで終わっていたけど。でもこれ、ヒットしないだろうなーと思った。多くのひとは、しゃぶりやすい、あま~いあめ玉を求めているからね。現実なんて、映画や小説で見せてもらう必要なんてないのだろう。

と、急に熱くなってしまったので、一息いれて。

それでも、今日はちょっといいことがあった。自分の小説「まじめ~」を読んだ読者の方から直筆の手紙が出版社に届いたそうで、それを郵送してくれたのだ。いやー胸があつくなるね。そして、その読者の方の直筆の、(たいへんきれいな読みやすい字で書かれた)拙著に対する感想を読みながら、あー自分は、まだ、この世界にいていいのだな、こんな手紙を書いてくれるひとがいるのだから、捨てたもんじゃないじゃないかーと人知れず(といいつつ、ココに書いてしまったからヒミツじゃないけど)、涙を(ホントだよ)流すのであった。

明日は、テレビ関係の友人を集めての小宴会なので、今朝はお掃除をしてもらって(時々プロのひとに頼んでいる…最近は、自分ができないことはひとにお願いする…という方針に変えたのだ。なんでもひとりでやろうとすると破綻するので…)、食材を少々買ったりした。仲良しの女子もたくさん来るし、なんか楽しくなってきた。そのうちのひとりがさっきメールくれて、やっぱり「まじめ~」についていろいろ書いてくれてて、そういうのがまた嬉しい。

「なにかを語りたくなる作品」でいられることが嬉しいんだ。そうあってほしい。そうありたい。なので、これからも、手探りのまま、真っ暗な海に船を出すようにして、なにかを書き始めるのであった。