「もてる」問題考察。
境界線領域にいるミニさん。何で、部屋に入ってこないか不明。(カナは必ず、足下で寝ていたのになー)。
そんなわけで連休も明け、あまりに肩が凝るので、仕事の帰りに整形外科に行った。すると…
「クビの骨が曲がっている」と言われた。「交通事故にでも合いましたか?」と。
いーえ、全然、うちで、パソコンに向かっているだけです。整形外科の先生がクビを傾げておりました。とにかく、書き物をしたら、2時間に一度くらいは休憩を取らないと、恐ろしいことになりますよ…と注意された。自分ではマメに休憩をとっているつもりだったけど、休憩といっても、パソコン上で、「書いているもの」からブログやミクシィに行くだけだから、身体的にはちっとも休憩していないのであった。
しかも、時々、書き疲れるとそのまま、左側にある本棚にもたれて寝たりするので、それなどもたいへんクビを圧迫するらしい。が、ほとんど気づかずやっていた。それでも、9月はテレビの仕事があったから、書きっぱなしだったわけでもないのになー。ごめんな、自分の首よ。
今日は考えること、気づいたこといろいろあって、全部書きたい気持ちだけど、とりあえず、順番に書くと…、
1)新聞記事。
芦屋に塀を張り巡らせて安全を確保する富裕層向けの住宅区域ができたそうで、安全をお金で買うということらしい。アメリカやブラジルなどではけっこうあるよね、こういう地域。なんかチクっとくる話題ですが、現実はさておき、このような記事を読むと考えるのは、塀で囲んで、安全を確保したつもりが、塀の内側にこそ、危険が(危険な人物が)いた場合、塀は、檻になってしまうだろう…という逆転劇でした。
2)「もてる」とはなにか…についての考察の続き。
「もてる」「もてない」というのは、2000年くらいから女性誌で盛んに使われた言葉だけど、なんでそーなったのかっていうと、「底が割れた」からだと思う。それまでは、「愛される」という言葉でやんわり表現されていたものが、愛されて恋人になったところで、すぐに別れはやってくるし、結婚したところで、離婚率が30%を越える現在、婚姻届などなんの保証にもならない。そこで登場したのが、一番ほしいのは、「今、もてる」ってことでしょーと。
愛という言葉が持つ幻想の底が割れたのだと思う。(もちろん、そのバックラッシュとしての「純愛ブーム」があると思うけどそれについては、別の機会に書くとして)。
そもそも、「愛」というと聞こえがいいけど、そこへたどり着くのは、外見のきれいなコだったりする。年々ビジュアルに対する求心力は高まり、「女を外見だけで差別するな!」ということではなく、すでに、男子も外見で判断されるようになっている。見た目のいい男女が、『愛」を得やすいのだ。これに気づいてしまったひとたちは、口当たりのいい「愛」という言葉をすて、「もてる」を選択した。
愛されるために、中身を磨こう…という正論をつぶやいても幸せはやってこない…というのが時代の下した判断だったのだと思う。(それが正しいかどうかは別として…)。だから、アメリカの人気ドラマ「nip/tuck」を例に出すまでもなく、日本でも美容整形は非常に盛んだし、ダイエット本はいつもベストセラーにランクされるし、とにかく「外見を磨け!」というテーゼは蔓延している。
で、今いちど、「もてる」とは何かといえば、それは、自分を世界基準に合わせるということである。世界が求める美の基準、愛されるための基準に自分を近づける努力をするということである。(もちろん、生得的にもてる要素をそなえているひとはいて、そのひとたちは、何もしなくてももてるから、とりあえず、「もてる」呪縛からは自由でいられる)。世界基準に自分を近づけたひとは、その結果、もてるようになり、「愛」らしきものが獲得される。
「もてない」というのは、世界基準…ようするに多くのひとが美や愛と想定するものから離れているひとのことをいう。それが拒否した結果であるか、ほしくても手に入れることができなかった結果であるかはとりあえず関係なく、世界の基準とずれていれば、「もてない」のだ。(厳密にえいば、「もてにくい」)。
かつては、一度「もててしまえば」(一度結婚してしまえば)、この「もてる」地獄から降りることができたのだが、すでに、結婚したからOKという時代ではなくなった。常に、危機にさらされているのだ。男も女も年寄りも若者も常に、「もて」という試金石にさらされている。これに対して、上野千鶴子先生は、「女をおりて、おばさんになってしまえばいい」とおっしゃっている。(あくまで文脈としてこのようなことを書いてらっしゃったということで、正確な文章ではないけど)。これはたぶん正しくて、恋愛マーケットを出てしまえば、(かような愛に救いを求めなければ)、気楽にやっていけるのだろうと思う。
けど。
そんなに簡単に降りられるものではないよなーというのが現実だと思う。わかっていても、愛されることを求めてしまうのだ。孤高に「愛なんていらねーよ!」と宣言できるためには、それなりの力がいる。
閑話休題。
このテーマで友人とやりとりしていて、わかりやすい!と言われたので、続けて書くと、「もてる」「もてない」は「売れる」「売れない」と似ている。
たとえば、わたしは小説を書いている。できれば、自分の小説を多くのひとの読んでもらいたいし、多くのひとから望まれたい。端的に言えば、「売れたい」。だからといって、『売れ筋』と言われるものに迎合したいかと問われると二の足を踏む。そうまでして「売れたくない」と思ってしまう。自分が信じていない世界を描いてまで、売れてもしかたないじゃないか…と思う。少なくとも今は思っている。だから、なにがなんでも「売れたい」ので、売れそうなもんを書く…ということにならない。自分の書きたいもの、自分が信じるものを書いて、「売れたい」のだ。(まあ、みんな本音はそうだろうけど)。
それはどこか、素のままの自分で「もてたい」と考えることと似ているもではないか。世界基準に合わせなくても自然にしている自分のままで愛されたいと願うことに似ている。それって、都合いいよなーと思ったりする。だって、「素のまま」の自分がなんぼのもんじゃい…という思いがある。ただのダメ人間じゃないか。それを放置して、「愛してくれ」と叫ぶ自信はないなと。
ちょっと混乱してきた。ということで、「もてる」「もてない」は「売れる」『売れない」に似ているけど、恋愛と小説はちがうから、比べすぎると意味をなさなくなるな。比喩の限界か。
とりあえず自分は、今のところ、自分の信じるものを書いていくしかないなーと思っている。その結果、たくさんのひとに認められなくても、悲しいけど、それはそれでしょうがないかなーとも。(もちろん、自分なりの方法で努力はするし、少しでも気に入ってくれるひとがいれば、そのひとに向けて頑張って書く)。
クラシック音楽家や画家の生涯を取材する番組をやっていると、生前認められなかったひとがけっこいることを知る。つらいなー本当につらいなーと思う。でも、まあ、信じていくしかないよね。
ノーベル賞の受賞者について、友人とやりとりしていて、そんなことを考えてしまった。(いえ、自分ごときをノーベル賞受賞者と一緒にしてはいけないけど、自分を信じて、ずっと続けるというのは、すごいことなのだ)。
あ、「もて」問題からずれてしまった。(自分としては、今は「もて」問題が切実じゃなくて、「売れる」問題が切実だから、現実に引きずられました)。
おー首が痛いよ。