山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

本棚のつくり方、自分流。

本棚の整理をしました。

整理…といっても、全部は無理なので、机の近くの棚のところだけ変えた。本棚の作り方には、一応、自分なりのルールがある。いや、ルールといばれるほどでもないけど、最初に詰め込んだとき、大ざっぱな法則は作った。本を内容で分けるか、大きさで分けるかというまず大問題がある。自分がとったのは、文庫は文庫の棚をつくった。(フツウだ)。その他は、まず、大ざっぱに「好きな本、大切な本」と「そうでもない本」とに分けた。大切な本のなかでも外国文学と日本文学を当初は分けていたが、今はごっちゃになっている。そうでもない本は、もう読んだはしから並べる…ということにしている。この程度の分類であった。

で、本がたまってくると、「そうでもない本」の棚をのぞいて、50冊を選ぶ。これを古本やさんに引き取ってもらう。とまあ、システムといえるほどではないシステムである。その他は、「自分の本」のコーナーを作った。当初はコーナーにはならなかったけど、時が過ぎ、脚本の本なども加えると10冊近く出版されているため、ひとつのコーナーを占領できるようになった。それに、自分の本の場合は、同じ本が3~5冊くらいは、常備されているので、結構な量である。そのコーナーを見て、深夜に「よくここまで来たナ」とにんまりしたりもするので、にんまりコーナーである。

あ、話が横道にそれた。で、さらに新しいコーナーとしては、「今、書いてる本の資料コーナー」というのを開設した。「しまうたGTS」の時に、沖縄関連本を結構読んだ。50冊くらいかな。これらをひとつのコーナーにまとめた。調べたいときにすぐに手に取れるようにデスクの近くに。でもって、次の本のために、「北海道・競馬コーナー」も作った。さらに、現在映画用に、「映画に出す本コーナー」も作ったのだ。(「沖縄」コーナーに引っ越ししてもらった)。

「映画用コーナー」とはなにかと言うとですね、自分の映画「すべては海になる」の主人公は書店員でして、しかも文芸書の担当で、自分でポップを書いているコという設定なんですね。で、彼女の選んだ、おすすめ文芸書のコーナーをまず、自分の本棚に作って見たのでした。まあ、要するに、私のすきな本ばかりなんですが…。そいつを並べて、ポップを書くことにしたのだ。はっはっは。

今、脚本、直してて、その本棚のことを考えてたら、実際作ってみたらいいじゃないか!と思って、沖縄コーナーを移動させて(もう、終わったからね…)、そこにね、特に好きな本、おすすめな本を並べてみましたー。いや、楽しかったす。しかしですね、最近読んだ本はすぐに出てくるからいいけど、昔読んで気に入ってても、本棚の奥にあるやつは取り出せなかったりして、口惜しいですが、まあ、あんまり古い本だと、売り場として考えたとき、絶版の本を並べることになってもおかしいので、よいことにしました。

ちなみに自分の本棚は、本当の本棚ではなくて、シェルフなので、本が二重につまるため、奥の本を見るためには、手前の一列を出さないといけないという不具合もあるのでした。本と服は、どんどんたまるから、しょうがないよね。

昨日読んでいた『太陽の子」にこんなフレーズがありました。「本を借りて、家を買うようなひとになるな」…なるほど。「本を買って、家は借りろ」ってこと。知人から聞いた似たようなものに、「お金は盗まれるけど、知識は盗まれない」というのがある。本>家、知識>お金 ということなんでしょう。はい。わかります。

ただ、前者の「本を買って、家は借りろ」という警句なんですけど、この場合、家=お金ということだと思うけど、そうじゃなくて、「家」に芸術を求めるひともいるだろうから、たとえば、建築家とかデザイナーとか…だから、一概に、本>家 的な価値観に対して、「そうだ、そうだ」とは言い切れないよなあ。「太陽の子」が書かれた1970年代は、まだ「家」が男子一生の買い物であり、家=富の象徴であったから、「本を借りて、家を買うようなひとになるな」という警句が効いたと思うけれども、それから30年以上が過ぎて、家は富の象徴でもあるけど、一方で楽しむための「道具」という感覚になっているような気がする。

自分など、この生涯で、マンション5つくらい買ったような気がする。(全部は残ってないよ)。買ったり、売ったり、共同で買ったりね。もはや、家=生涯唯一の買い物…というより、その時々の暮らしの結果でしかないな。一番大きな理由は、賃貸だと大型犬と暮らせない場合が多いから。これ、最大の理由だ。

あ…本棚の話から大いにそれました。とりあえず、今日は、本を並べ替えた…ということを書きたかったのでした。夜、「流星の絆」を見ました。相変わらず、いい感じ。なかに、「二時間ドラマじゃあるまいし」というセリフがあった。ううむ。自分も時々、「火サス的」と言ってしまうことがあります。もう、「火サス」ないけど。この感覚はわかります。けど、「火サス」がなくなった今、この感覚はどこまで、通じるんだろうなあー。もちろん、一部の推理ドラマは一時間枠でも、充分、「火サス」っぽいから通じるのかな。小説だと、「火サス」っぽいサスペンス小説、いまだいっぱいあるし、そっち主流だしね。本の世界は保守的ですからねー。

ということで、話があっちこっちに飛びましたが、今日は終日家にて、作業だったため、夜になって、いろいろ考えたことを書いてしまったのだった。体力も温存されているし。

もう、週末。もう、年末。もう、晩年。おお。