山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

納得する殺人の理由。

今日は、NYから来ている友人とランチをする約束があり、11時頃に起きて、出かけました。ランチ+お茶で楽しいひとときを過ごし、途中まで徒歩で戻り、首の医者に寄って、帰宅したのは、17時頃でした。

が。
昨晩眠ったのが、朝の7時くらいだったせいで、眠くて眠くて、18時頃、意識を失い、爆睡。目が覚めたのは、22時でした。そうです。「流星の絆」の最終回が見たかったから、起きたのだ。あるいは、それ目指して寝ていたと言っても過言ではない。(いばることじゃない)。

で、「流星の絆」最終回。そうか、そうだったのか。犯人は三浦友和だったなんて…。私は深い根拠なく、尾美としのりさんだと思っていました。じゃなきゃ、キャスティングされている意味がないと思って。ふうん、そうだったのかあ。

ミステリーあまり読まないし、殺人事件に詳しくないけど、なんか、ちょっと無理がないだろうか…と思ったりもしました。自分の息子の命を助けるため…なら、あり得る…という納得感なんだろうけど、ちょっと後味が悪かった。いや、これはストーリーの問題じゃなくて、殺人事件の犯人がわかる…ということは、誰が犯人であったとしても、後味の悪いものなんだろうなあ。

どういう理由であれ、ひとがひとを殺した…という点で、「それなら許せる」という理由はなかなかないだろうから。理解はできる、想像はできる、ということはあったとしても、それでも、ひとはひとを殺さないでいてほしい…という気持ちが働くのかな。「なるほど!」と納得して、爽快感を持つことはないなあ。だから、事件ものってあんまり好きじゃないのかもしれない、結局。

ひとがひとを殺す理由はいろいろあるだろうけれども、「これならOK」というものはなかなかないだろう。殺さなければ殺されていました…というのが一番、「しかたない」理由になると思うけど、それでも、後味は悪いものだ。どこかで人間はそうあってほしくない…と信じているのかもしれない、案外、まっとうに、自分も。

○○のためなら、ギリギリ理解できるかもしれない理由として、日本だと、「母親OR父親が子供を守るため」というのがあるだろう。「流星の絆」も病気の息子を救うために、父親が殺人を犯すわけだ。ここ、案外ポイントだよなあ。親は子供ためなら、殺人も犯す…という親子の愛情の深さに、日本文化は優しい…ような気がする。遺伝子レベルで言えば、自分が犯人となって早めに死んでも子供を生かすことで、自分のDNAを残していけるという本能的欲求と言えるもかもしれないけど…そういうことではなく、ヤな感じがする。子供からしてみたら、いい迷惑のような気もする。暴走するなよ、親!と思うなあ。

「親の愛情は海より深いのだ」とか「親とは、そういうもんだ」という定義に深く頷くのは、好きじゃない。あ、反感買いやすい意見かな。「子供のいない奴にはわからんよ」と言われそうだが…。が、たったひとつ言い返すとしたら、「そういうことを言いたくないために、子供を持たなかったのだ」ってことかな。言い過ぎ?

もし、それほど、子供への愛情が深いなら、殺す相手の親を想像したらできないのではないか。子供を失うことがどれほどつらいかを知っているならなおさら、同じ苦しみを他人にもたらすことができないのではないか。誰かを深く愛したことがあるなら、ひとを殺せないのではないか。一度も深い愛情を感じたことがないからこそ、殺人を実行できるのではないか。ちがうのか。愛情とは想像力のことではないのか。子供のための殺人と思った途端、実はそれは嘘だ。子供を失う恐怖から自分を救うための、自分のための殺人なのだ。どこまで言っても。だから、後味が悪いのだ。本当は自分のためであるのに、あたかも子供ため、愛情のためとすり替えるようなところがいやなのだ。偽装された自己愛が嫌いなのだった。

(もちろん、正直な殺人なら許されるってもんじゃないけど)。