山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「ラースと、その彼女」

渋谷で、「ラースと、その彼女」を見て来た。

ラースは生まれた時、母親に死なれ、父ともあまりうまくゆかずに大人になった青年。ガレージに住み、ひとと接するのが苦手。そんな彼を兄夫婦は心配するけれど、彼はかたくなだった。ところがある日、ラースは彼女ができたという。連れて来たのは、通信販売で買ったいわゆるダッチワイフ(等身大の人形)だった。彼は人形に「ビアンカ」と名前をつけ、人間と同じように扱う。

なんて、シュールな設定なの…と思う。だから見たかったわけで。で、かような設定を作ることは実はそんなに難しくない。突飛な話はいくらでもできる。けど、それをどう物語として展開し、納得のいく結末へ持って行くかっていうのが肝心だよね。設定が突飛であるほど、結末で納得させるためには高水準な力が要求される。

ラースは普通に考えたら、「変態」「危ないひと」である。ダッチワイフに服を着せて、教会やら友達のパーティーに連れて行ったら、普通は「変態」扱いされて、迫害されたり、逮捕されたりするんじゃないか。同じことを都内でやったら、わいせつ物陳列罪とかよくわからんが、充分、「つかまる」ような気がする。あるいは、ビアンカが人形であることを誰かが思い知らせる行為に出るとか…普通は平和的な方向へ向かわない。

が、この映画は奇跡的に、平和的解決を迎えるのである。それは、もともとラースが町のひとから愛される存在であったことと、彼の抱える精神的な問題に町のひとたちが親身になっているからのようだ。彼とビアンカは町のひとたちから、そのまま受け入れてもらい、そのことで、ラースは逆に回復していく。

いやあ。奇跡的な物語だ。ギリギリな感じがした。そんなことあるはずがない。ありえない…と思う一方で、もしかして、案外、ひとはこのようにひとを受け入れるのかもしれない…と思ったりもする。

劇中で、「あなたの妹さんだって、猫に服着せているじゃない」とか「あなたの甥だってUFO研究会に入っているじゃない」などといった会話の応酬がある。そう、猫に服着せて、擬人化するなど、小さいレベルでは、ひとは、ラースと同じようなことをやっているのだ。わたしもしょっちゅう、犬と話しているし。そして、そのような、客観的には少しおかしなことによって、ひとは壊れた心から回復していくものらしい。

そのことが割とストレートに伝わる作品だった。ただ、ここまでみんながラースに優しくなれるのだろうか…とちょっと思ってしまう。現実はキレイごとだけじゃないからね。ラースが町のひとたちに許されているのは、彼が性的な存在ではないからじゃないかな…とちょっと思う。彼がダッチワイフをその使用目的の通りに使っていたとしても、彼らの扱いは同じなんだろうか。そこらへんが少し気になったけど…。でも、町のお年寄りたちが結構、彼に優しいんだけど、年をとるとそういうこと(性的なこと)にも案外、うるさくなくなるのかもしれない。「人間なんてそんなもんだよ」と悪くない方向で開き直るような。

ラスト近くでラースが老女たちに囲まれて慰められるシーンで、ああ、そうか、あんな風に老いたらいいんだなと思った。なんでも受け入れるおばあちゃんたち。たくましく、やさしい。

不思議だったのは、お客さんに女子高生が多かったこと。先日いった「おくりびと」などは、9割が年配の方であったけど、そして最近の映画館ってどんどん年齢層高くなっていると思うけど、これは例外だった。女子高生がグループになって10名くらいで見に来ていた。彼女たちに人気のアーティストが褒めたりしたのかな。彼女たちはこのような映画をどう受け入れるのかなとちょっと聞いてみたくなった。

映画を見ていて、ひとつアイデアが浮かんだ。嘘と本当の入り交じる物語だ。前からふたりの女性のお話を書こうと思っていたけど、そのアイデアをもらったような気がする。どこまでが「作り」でどこからが本気なのか…そういう話。

というわけで、映画は自由だ。