山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「許されざる者」

今日も朝から編集でしたが、思ったより早く帰ることができたので、さっさか書き物の仕事をするかと思ったら、DVDで「許されざる者」見てしまった。遅れてきた、イーストウッド研究をしているのでした。

銃の撃ち合いとか暴力とか、自分は非常に気が弱いので、たいへん苦手である。滅多に見ないし、見るとたとえ正義が勝つ(?)ようなお話でも、痛々しくってあんまり見ることができない。ですが、先日「グラントリノ」を見て、最初はあんまり好きじゃないなーと思ったのですが、その後の研究により、ちょっとわかったような気がして、(理解が遅かった)、クリント・イーストウッド氏の研究を始め、尊敬しつつあるのでした。(遅いよ)

自分のことを棚に上げて言うようですが、日頃研究していないテーマのものって、いきなり見ても、そのモチーフとか理解できないのだなと思いました。自分は恋愛ものなどについては、小説やら映画やらテレビドラマやらをたくさん鑑賞してきているので、その対象に対するある程度の知識の蓄積があります。なので、恋愛をテーマにしたものだと、理解が早いというか、態度がはっきりできるように思う。そして、作品についても厳しい目で見てしまう傾向があります。一方で楽しみ方も知っているように思う。

けど、「暴力」というテーマについては、ほとんどノータッチでした。基本、嫌いだし、怖いから。格闘技などを見るのも苦手だし、スポーツでさえ、割と怖い。肉体によって勝ち負けを競うものが苦手で…。理由は簡単で、自分がスポーツ苦手だったからでした。幼少のころ、運動ができないせいで、たいへんイヤな思いをしましたし。走るの遅いし、球技は球になかなか触れることもできなかったという、どんくさい生き物でした。苦手なものにひとは近づかないものでございます。

そんなわけで、「暴力」というテーマについては、知識の蓄積がほとんどなく、「殺し」がテーマのものだったりすると、どれも同じように拒絶してしまうのだった。だから、クリント・イーストウッドさんがずっと丁寧に描いている、暴力の無意味さとか暴力による解決の不毛さなどについては、理解が浅く、想像力が働かないのだった。暴力について、考える前に、「暴力」というだけで「NO!」と叫んで拒絶してしまう…つまり、暴力について考えることをやめてしまって来たのだった。これは考えの狭くなるよくないことである。

たとえば、エロティシズムをテーマにした作品だって、いろいろあって、傑作もあれば、駄作もあるけど、「エロ」ってだけで拒絶して見ることができない場合(ひと)があるでしょう。それに近い。
《エロ》全部、いや…と拒絶し、考えることを放棄する。そういう態度のひとを嫌ってきたけど、自分は暴力に対して、同じ態度だったのだと初めて気づいた。暴力が出てきただけで、拒絶してしまう。「許されざる者」でも馬が撃たれたりするので、非常に傷つく。

けれども、今回自分で映画やってみて、映画のなかにいくつかの暴力シーンがあるんですけど、それは、暴力を派手に描く…ことがテーマではなかったけど、暴力について、もっと考えなきゃと思った。というか、単純に暴力シーンを描くのは、非常に興味深く、芝居を作っている間も(言葉使いは難しいけど…)楽しかった。楽しかったというか、エキサイティングだった。

そんなわけで、遅れてきた「暴力」研究中です。怖いけど、苦手だけど。

こういうことに気づいたのは、とある音楽家さんのひとことでした。

なぜ、ひとはこの楽器の音色を聞くとさみしい気持ちになるのか…それは経験のなせる技です。その音色を聞いたシーンがいつも悲しいシーンだから、悲しく思える…ということ。蓄積なんだということ。その楽器の音色を一度も聞いたことがないひとは(別の楽器の音色を知っていたら別として)悲しくは思えない。

こう仰っていて、そうなのか、としみじみ思ったのだった。でも、そうかもしれないと思う。映像の編集だって、そのような映像にたいする視覚の経験によって、変わってくるものだし。

そういうことを、考えたりしました。楽器の音色とその楽器誕生の歴史も、最近得たテーマです。これ、ちょっとちゃんと研究したいんだー。面白いんだもん。

そんなわけで、明日も午前中から仕事だけど、ひとつの仕事がようやくじょじょに終わりつつあって、ひと安心です。