山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「adaptation」

DVDで、「マルコヴィッチの穴」のコンビ、監督、スパイク・ジョーンズと脚本、チャーリー・カウフマンの「アダプテーション」を見る。アダプテーションって、「適応」という意味もあるし、「脚色」という意味もあるようだ。

脚本や小説を生業とするひとには、他人事とは思えない作品だった。(まあ、小説家はちょっと違うかな)。オリジナルな脚本を書きたいと思う一方で、「売れるのか」とか「プロデューサーに面白いって言われるか」という悩みを抱えつつ、わかりやすいハリウッド映画的展開はもうごめんだと思いつつ、でも、それじゃなきゃ、映画にならないし…とか、ぐるぐる悩んでいる様子は、脚本を書いたことのあるひとなら、一度は経験するものじゃないかしら。

そして、「マッキー」の名称で出てくる、ハリウッドの脚本の先生の存在。マッキーの教えはもっともだ。「ドラマがないとダメ」だし、「ボイスオーバー(ナレーション)で、登場人物の心を説明するのは、だめ」など、ハリウッドの脚本の教科書にはよく書いてあることだ。「セックス」と「ガン(銃)」と「カーチェイス」がお約束…とか。

もっとリアルな物語を書きたい主人公は悩む。普通の人生にはそんなにドラマは転がっていない。だから、淡々としたものが書きたい。映画のなかで主人公が成長したり、なにかを知ったりするようなストーリーはイヤだ。…そう、思っている。が、同居する兄弟で、脚本家志望の男は、その逆を志す。殺人あり、多重人格あり、カーチェイスあり、とにかく、なんでもあり。

で、後半は思わぬ展開が待っていて…。結果的に言えば、この作品には、セックスあり、ガン(銃)あり、カーチェイスありになっており、「ラストがよければ大丈夫だ」という教え通り、急に物語りが動き出して、ひとも死んで、涙もあって…という映画のなかの脚本家がもっとも避けたかった結末になっている。

メタ脚本ってところかな。確かに、ハリウッド的展開を見せる部分から面白くなって、集中してみることができた。それまでの、主人公が逡巡して、動かず、なにも始まらないシーンの連続よりは、楽しめた。そういう意味では、「淡々としたものを書きたい」ということがどれほど冒険なのかを教えてくれる。

「俺の二時間を返せ。おまえのつまらない映画につきあった二時間だ!」

こう、マッキー(脚本の先生)が叫ぶ部分がある。ごもっとも。

いろんな意味で勉強になった映画でした。でも、どうだろう。本当に面白いのかと言われると迷うところ。むずかしいなあ。