山田あかねの一喜一憂日記

テレビディレクターをやりながら、小説書いてます。映画も撮りました。脚本なども書いてます。 本、買って下さいね。

twitterとは世間である。

twitterを始めて、2週間くらいたつ。

そんなにはまっているわけでもないけど、時間があるとつい見てしまう。週刊「ダイヤモンド」で特集が組まれたり、NHKでもやっていた。関連本も売れているらしい。にわかにブームっぽい。で、いったい、これってなんだろうなーと漠然と考えた。

基本的には、世界中のひとのつぶやきをオンタイムで聞くことのできるツール(メディア?)だと思うけど、実際は、そんなの無理だ。時間的にも語学的にも…。つぶやきは永遠だから、そればっかり見てたら、それで一日終わっちゃう。で、どうするかというと、結局、自分の興味ある有名人と、自分の知り合いくらいが、メインの「つぶやき」相手になる。

これを何名くらいに設定するか、どれくらいの頻度で見るかというのはひとそれぞれだろう。でね、これって、自分の選んだ「世間」ってことではないかと思った。ツイッターでつぶやかれていると、その本をアマゾンに注文しちゃったり、ケーキやさんなら、次に行こうって思ったり。そこそこ影響されている。それはツイッターのなかでも、自分の限定したひとからの情報発信であるから、なんでもかんでも受け入れているわけではない。自分の場合は、そのほか、「よく知らないけど、なんか、普通のひと」もフォローしている。そういう人の暮らしぶりに興味あるし…。

で、ひとりのひとがフォローする人数って、かつて、ひとが共有していた「世間」のサイズに結局落ち着いていくんじゃないか…と思った次第。つまり、ネット上の自分で選んだ「世間」。

マスメディアが、これほどに大きくなる前は、自分の周囲のひとの情報や倫理観に従って、生きていたんだと思う。自分まわりの常識に照らして、いろんなことを決めたり、選んだりしていたと思う。ところが、ここ数十年で、「世間」というものが消失して(まだ、していない地域に暮らしているひともいるかと思うけど、自分にとっては、消失している。せいぜい、「業界」くらいの感覚しかないけど、それはほとんど実体がない)、物事を決める基準があいまいになった。なくなったとも言える。

なので、ひとつのものが流行ると爆発的に流行ってしまったりもするし、善悪の基準もあいまいになり、わけのわからない犯罪も起こってしまったりする。自由になってよかった分もあるけど、基準を失って、さまようひとも増えてしまった。

だから、飲み水を求めるように、基準求めて、自分の聞きたい声を聞きにいくのではないか。それって、自分で選んだ世間じゃないか。ブログとかhpとかだと、長いし、そうそう読んでられないけど、つぶやきなら聞ける。あーあのひとは、海外に仕事行ってるのね、とか、あそこのプリンはうまそうだとか、シネカノンがつぶれたことについて、みんなはどういう態度だろうとか、じゃ、サリンジャーについてはどうよ?とか、次々と「自分の作った世間」の声を聞くことができる。

で、それらの声に触れながら、なんとなく、心のなかの基準が創造される。時に軌道修正することもあるし、やっぱり、自分、間違ってないよね、と思ったりもする。そういう機能を持つ世間…少なくとも、自分は随分前になくしてしまった。(自分から選んだんだけどね)。

自分はフリーランスだし、テレビの世界、小説の世界、映画の世界、犬の世界と、細かく分段された世界で生きており、普通の会社員のひとより、さらに、「世間」がない。ほとんど、まったく、自由で孤独。誰にも怒られないけど、誰からもいつでもすぐ忘れられる。それって、いいけど、時に怖い。

そういう時にさ、「落ちてます」とつぶやくとすぐに返答がくる場所が、やっぱり必要なんだと思う。昔だったら(「昔」っていつ?そんなあいまいな言葉使うなよ…と言われたら、そうだな、バブル前くらいまで…としておこう…)、気落ちして、道端でうずくまっていたら、近所のおばちゃんが、「どうしたの?お腹痛いの?」と声をかけてくれたり、通りすがりの猫をさわることで、ほっとしたりできたような気がする。(あくまで、想像)。

なんか、そういう路地みたいな世間が、ネット上に生まれているような気がする。時々いって、ちょっとしゃべって、また、逃げたりして。でも、そこでは最低限のルールがあって、あまりの暴言はゆるされないし、なんか、そんなこと。

そういうことを、考えました。ひとは結局、世間を欲しているのではないか。人間は集団でいきる生き物だから。ひとの気配と言葉と気持ちのなかで生きるものなのだ。

じゃ、芸術はどうよ?というのは、また、別の話。

あ…柳楽くんのインタビューがアップされているので、ぜひ。

柳楽優弥インタビュー