山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

エゴサーチ

エゴサーチ。

正確には知らないけど、自分の名前で検索をかけることを言うんだと思う。先日、twitter上で、話題になっていた。…話題ってほどでもないけど。

ある詩人のひとは、よくエゴサーチして、自分の作品について書いているブログやつぶやきに必ず返答するらしい。それについて、「気持ち悪い」みたいな意見を書いているひとがいた。そしたら、その詩人、本人が、その「気持ち悪い」というつぶやきをRTしてた。(リツイート…つまり、多くのひとに読めるようにしていた)。

敵と味方…ということでもないけど、自分ははっきりと「詩人」側。自分も時々、エゴサーチするし、いいこと書いてくれているひとや応援してくれているひとには、書き込んでいったり、返事を書いたりする。イヤなことが書かれている場合は、あまり読まないようにして、閉じてしまう。けど、ざっくり、「誰が書いたか」は気にしておく。

これって、特別なことなのか?

自分で作品作っているひとの多くにとって、極めて自然なことでは?誰だって、気になるでしょ。自分の書いたものがどう思われているか…。twitterでも、"自分も同じ!"…と詩人に賛同するひとが多かった。

昔は、ある特別なひとしか、作品への評価を公にできなかったけど、今は、誰でも意見を言える状況にある。ネットの広い海のなかで、つぶやいたことは、具体的な作品名や作家名があれば、検索すれば、必ずたどり着く。これが、近所の友達と悪口言い合うこととは完璧に違う。

「昨日のあのドラマ見た?」
「すげえ、つまんなかったね」
「あの俳優は終わりだね」
「…っていうか、脚本が最低じゃん」
「演出もひどかった…」

このように、学校の教室でしゃべっている分には、その言葉は作者や出演者にとどかない。けど、同じことを、ネット上でやったら、すぐに届いてしまう。それが、どれほど山奥だろうと、小学生の会話だろうと…。

本気で作品を批評しようとしているなら、それはそれでいいと思うけど、何気ない気持ちで、「さいてい」とか「つまらん」と書いてしまっても、作り手には届いてしまう。このへんの危うさについて、学ぶチャンスがあったほうがいいと思うなあ。

もちろん、特別、作り手側じゃなくたって、エゴサーチはすると思う。昔の彼氏を検索したりすることってあるよね?

自分など、長く生きているので、検索の結果、思わぬひとの現在を知ったり、写真も見ることができたりと、ネットってすごいなあと思うことはよくある。「あのひとは今…」みたいなことを個人的にすぐできるもんね?

そんなわけで、自分もエゴサーチはかつてよくやったけど、最近はあまりやってない。やっぱり、「イヤな」書き込みに出会いたくないのが、一番の理由。小説だけ書いてる時には、いじわるを書かれる確率は低かったけど、映画のほうが、たくさんのひとにアピールする分だけ、悪意もひきつけやすいのでね。

怖いんだもん。ひどいこと書かれていると、死ぬからね。マジで。

ということで、今日も一日とても忙しかった。今夜もこれから、朝まで台本を書きます。眠れない日々が続く。