山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「息もできない」

日曜日。

午後からひとつ打ち合わせに出かけて、夜、韓国映画「息もできない」を見ました。それで、「わが家の歴史」を見逃してしまった。うー間抜けだ。しかし、しかたない。

「わが家の歴史」はこれから、ビデオを誰かに借りることにして、「息もできない」の感想を少々。ネタばれとかありますので、一応、言っておきます。

「息もできない」は、借金の取り立てを商売にしている、すぐにキレて暴力ばかりふるうチンピラと、父親が認知症で、母親は殺されていて、弟がグレ始めている家庭に暮らす女子高生のお話。ポスターに「二人でいる時だけ、泣けた」(記憶あいまい)のようなことが書いてあったので、このチンピラと女子高生の恋愛ものかと思っていました。予告もそういう感じで作られていたので、キム・ギドク風の、チンピラが普通の女子高生と恋愛して、彼女を売春婦にして、お互い、ボロボロになっていく類かなあ、だったら、いやだなあ、と思っていた。そういう話、嫌いだから。

けれども、そういう話ではなかった。まず、チンピラと女子高生の恋愛ものではない。いや、多少、そういう気持ちもあったかもしれないけど、それは重要じゃないように見えた。恋とか愛とか言ってられないくらい、追い詰められているひとびとなのであった。というか、「恋愛」という概念をもたないひとたちの物語だ。

だから、途中で、「え?これ、時代設定いつだっけ?」という思いにかられた。けれども、携帯電話が普及しているので、現代なのだと確認しながら見る次第。それほど、物語の内容が、過去のお話のように見えた。そして、描かれる人物像も、「過去のひと」っぽかった。

しかし、それは、まず、韓国の話であるし、なぜなら、韓国は日本とは違うからで、例えば、女性は今でも結婚するまで、バージンであることが美徳とされるようだし、結婚とか家庭というものの重要度が日本より、高い。(これは2005年にテレビの取材で行った時の印象なので、一応)。

とはいえ、時間が止まっているようにも見えた。

チンピラは、子供のころ、父親が母親に暴力を振るう姿を見ている。父親の暴力をとめようとした姉は父親に刺され、一命を取り留めるが、動転した母親が交通事故で死ぬという過去を持つ。それゆえ、彼自身もすぐに暴力を振るってしまうのだ。いわゆる、暴力の連鎖である。

一方の女子高生も、弟は暴力的であるし、父親も認知症ながら、娘に包丁をつきつけたりする。ここでも暴力の連鎖が起こっている。さらに、チンピラの姉の結婚相手も、暴力男だったらしく、彼女は離婚し、ひとりで子供を育てている。出てくる男たちのほとんどが、暴力男なのだ。なにかっていうと、殴る。クソアマとかひどい言葉を吐きながら。殴る、殴る。これだけ見たら、韓国の男は、毎日、ひとを殴っているのかしら…と思うほど、とにかく、殴りまくる。

で、そんな状態のふたりが知り合い、チンピラは、姉の息子と遊ぶうちに、暴力にからめとられる自分を反省するようになってくる。取りたてにいくと、借金を返さないやつをめちゃめちゃ殴ったり、出所した父親をことあるごとに殴っていたのだが、殴る姿を見た子供が、どれほど傷つくのかに、ようやく気づくのである。

が、しかし。

暴力をやめようと決意したその日に、それまで、痛めつけていた手下の男から殺されてしまうのである。彼が戻るのを待っていた、女子高生と甥っ子(子供)は、待ちぼうけを食わされる。そして、彼が殺されたころを知って、泣く。

こうやって書いてみると、かなり、月並みなお話である。チンピラが、暴力から足を洗うことを決意し、甥っ子の学芸会を見に行くと約束した、その時点で、「あー殺されるか、誰かを殺すかするんだろうなあ」と思ってしまった。で、案の定、殺された。しかも、女子高生の弟から。ううむ。

この弟なんか、チンピラを殺すために、配されているようなものなのである。偶然、チンピラの手伝いをし始めるのだ。女子高生の知らないうちに…。おかげで、物語はよりドラマチックになるのだ。好きな男を弟に殺される…という悲しみ。

ううむ。非常に月並みな話なんだけど、作り手の迷いのなさというものを強烈に感じた。月並みであろうと、通俗的であろうと、自分はこれが撮りたいんだ、自分にとって、世界とはこういうものなんだ…という力は感じた。

カメラを振り回すような映像はうっとおしかった。チンピラの死をめぐって、時系列を壊す編集は、ちょっとだけ、新鮮だった。

でも、なんか。でも、なんか、ひっかかる。

暴力をやめられない男の、弱さと悲しさを描いたもの…ということができる。チンピラか女子高生のどちらかの父親は、ベトナム戦争に従軍した…ということが提示されている。だから、この暴力の始まりが、戦争体験である…という示唆はある。戦争という暴力が残した傷跡が、今も続いている…とも読める。

けれども、そんな環境で育った男ですら、愛を知ることで(…と簡単にまとめるのもなんだけど、要するに、甥っ子や女子高生に愛情のごときものを感じ始めて、変わるのだから)、暴力の連鎖から抜け出せる…という希望も描かれている。けれども、物語のために、「時遅し」として、チンピラは殺され、殺した弟もまた、暴力にまみれていく。最後に女子高生は、弟とチンピラを重ねて見る。こいつもいつか、暴力の連鎖で殺されることになるだろう…というように。

そういう描き方もすでに、どこかで何度もされてこなかったか…という既視感に襲われる映画なのだ。そこが不満だった。新しい結末を提示してほしかった。比較するのもなんだけど、「フローズンリバー」は、この逆を行く作品だったと思う。つまり、暴力によって、破滅するだろうと思わせて、毎回、裏切り続けるのだ。それでもちゃんとドラマチックにできあがっていたと思う。

そう、自分が「息もできない」を好きになれない理由は、暴力が物語に奉仕しているからだ。物語を盛り上げるために、チンピラを殺すからだ。物語のために暴力を許すのが、いやなのだ。それは暴力の本質を描こうとするのではなく、暴力を描くことで、物語を盛り上げようとすることになり、結局、暴力の本質を描き損ねることになるのではないか。

暴力を描こうとして、物語を描くことを優先させてしまったこと。それが、イヤだったのだ。けれども、そっちのが、受けるのは事実なんだよね、きっと。なぜなら、映画は、物語をきっと見せるものだからなんだろうなあ。

評価の高い作品だから、自分ごときがとやかく言っても、しようがないけどさ。とほほ。