NHKでやっていた、「追跡AtoZ 虐待を超えて」というのを見てしまった。
九州にある、親から虐待を受けた子供たちが暮らす施設に密着したドキュメンタリー。もとは去年の7月にオンエアされたらしく、反響があったので、それに解説を加えた番組。
密着500日と聞いて、さすが、NHK、予算たっぷりあっていいよな…などと思いながら見ていたけど、見ているうちに引き込まれた。
印象に残ったのは、この施設で働く精神科医の方の言葉。虐待の連鎖といって、親に虐待された子供は、自分の子供にも暴力をふるう…とはよく言われる。この施設出身の女性も、「そう言われているから、自分も子供を愛せないんじゃないかと思って不安だった」と言っていた。
それくらい、虐待の連鎖(暴力の連鎖)って、一般的な概念になっているんだなと思った。それについて、精神科医の宮田さんというひとが説明していた。
「確かに、虐待を受けた子供の3割くらいが、親になると、自分の子供を虐待する。しかし、これは逆の面から見たら、6割から7割のひとは、虐待をしないってことなんだ」と。
そうだよな。100%のひとが虐待を繰り返すわけじゃない。7割のひとが乗り越える。つまり、多くのひとは乗り越えるんだということ。なぜ、そうなるかというと、宮田さん曰く、
「親に虐待されても、その後、友人とか恋人とかいろんなひとに出会い、そのひとたちから愛されることを知って、治っていく」って。「社会に出ることで回復していく」って。
あーそうだなあと思った。ひとはひとによって、治ることができるんだなと。なにも、愛情をかけるのが、親じゃなくたっていいじゃないか。他のひとからだって、愛される経験を持てば、回復できるのだと。あらためて、この話を聞いて、なんか、うれしいような、感動的な気持ちになった。
そして、自分も、ひととの出会いによって、治っていったんだと気づいた。(親に虐待されて育ったわけではなく、ちょっと別の、複雑な問題は抱えておりました)。そしたら、急に自分に根気強くつきあってくれて、結果的に自分を治す方向にしてくれたひとに、深い感謝の気持ちがあふれた。あーありがたいなあと思った。
年齢もあるけど、最近、本当に穏やかな気持ちで暮らすことができるようになったのは、そのひとの存在だったのだと、今更、気づいた。自分なりに、努力したり、創作したり、そういうことで、乗り越えてきたつもりだったけど、やっぱり、ひとの存在は大きかったのだ。
…個人的な話になってしまったけれど、感じるところがあったので。
ゲストとして、映画監督の是枝さんが出ていた。是枝さんが、実際にあった育児放棄の事件を題材にした映画「誰もしらない」について、「母親を悪人風に描かなかった。悪いひとが出てこない。映画としてのカタルシスのためには、悪人を出したほうがいいかもしれなかったけど、そうしなかった」みたいなことを語っていた。
そうだよなあと思う。映画という商品を作るとき、カタルシスのためには、悪を思いっきり悪に描いたり、悲しみを色濃く描いたりするほうが、ひとの気持ちを強く揺さぶることができて、結果、多くの観客を集めやすい。けど、それは、結局、真実に近づく道ではなく、物語を盛り上げるための道具になってしまう。自分はそういうのが、とてもイヤなんだ。
先日、書いた「息もできない」という映画の気になるところは、そこ。暴力の連鎖によって、主人公が残酷に死ぬことを描くことで、映画的なカタルシスを優先していることがイヤだった。
それはともかく、この番組からは、暴力の連鎖からは抜け出せるんだよ、という希望がちゃんと伝わって来て、それがとてもよかった。
そう、抜け出せるんだよなあ。