山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「ドン・ファン」

仕事で、「ドンファン」について、調べているので、ジョニー・デップが主演した映画「ドン・ファン」を見ました。

マーロン・ブランドやフェイ・ダナウェイも出ていて、コッポラ製作の大作でありました。

しかし、この映画って…。

「ドン・ファン」と言えば、女たらしの代名詞、数々の女を泣かせた遊び人と思っていた私は、仕事で取材したり、資料を読んだりして、初めて、その実体を知りました。最初は、女たらしじゃないんですねー。元は、16世紀~17世紀にヨーロッパに広く流布していた民間伝承で、それをスペインの修道士が「ドン・ファン」という物語にまとめたのが発端だったそうです。

もとの民間伝承では、主人公の若者は結婚を控えた単なる若者に過ぎず、数々の女性と関係を持つ、エロスの象徴となっていくには、いろんな芸術家のモチーフとなり、時代を経たあとなのでした。なぜ、ただの若者が、エロスの象徴として描かれていったかは、いずれ、番組でとりあげますので、答えは少々お待ちください。今月中にオンエアになりますので。

で。映画。

奇妙な作品というか、ムリがあるというか。今のニューヨークに自分を「ドンファン」だと言い切る青年が登場します。これが、ジョニー・デップ演じる男。奇妙な言動と自殺未遂によって、精神病院へ送られるわけです。つまり、21世紀にあっては、「われはドンファンなり」なんて言っていると、「性欲過多で妄想癖のある患者」、分裂症と診断されてしまう。

今の時代にあって、「ドンファン」とはなにか?を問いかけたかったのかもしれないし、数々の芸術家がテーマにしてきた物語だから、この監督もそれに挑んだのかもしれない。けど、正直に言えば、失敗ではないかしら。

ジョニー・デップは相変わらず、かっこいいし、この人、ホント、チャレンジャーでいろんな役を引き受けるよなーと感心しますけれども。

今の時代だって、ドンファンのように数多くの女性と関係を持つひとはいるし、逆に女・ドンファンだっているだろう。それをあらためてどうとらえるか…ってほうが、意味があったんじゃないかなー。しかし、そもそも、ドンファンの物語の本質は、エロス対タナトスなので、大切なのは、タナトス=死=「死者崇拝」であり、エロスに対立するのは、死に神であり、死に神とは、形を変えた、キリストなのであった。

つまり、死=悪ではなく、死者を敬うことー宗教心につながっていくのだ。そういうキリスト教的世界観があってこそ、初めて成立する物語なのだ、ドンファンは。

たくさん、女とやりましたーってだけじゃ、ダメなんだよねー。

いや、なんで、エロスを追求してしまうかと言えば、死と対立するためであると。死にたくないから、エロスに走ると…。そういうことであるらしい…か?

いろいろ考えてしまったし、確かに、ドンファンというテーマは、ひとになにかを書かせたくなるものではある。が、これまで、数百の物語が書かれていることを考えると、これで傑作書くのはかなり難易度が高いと思いました。