山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

女子監督から学ぶ。

今日はとても有意義だった。

夜、女性の監督たちと会食をした。「七夕会」と呼ばれて、年に一回くらい会って話そうという主旨の会だ。集まるのは、監督業の女性ばかり。今回は、ドキュメンタリーの監督ばかりだったので、食事が進むに従って、ドキュメンタリーを撮っていくときの、具体的な手法やトラブル対処法などの話になった。

ひとつは、「仕込み」について。仕込みっていうのは、例えば、作品として「ほしいシーン」を撮るために、ある場所や状況を用意することを言う。自分などもやるけれども、例えば、一軒家をシェアして暮らしている人たちの暮らしを撮影する場合、パーティーを開いてもらったりする。パーティーを撮ることで、彼らの人間関係や役割分担がよりはっきり出てきたりする。もちろん、この場合、パーティーを日常的にやっていることが前提だけど。

そのような「場」を作ることをよしとするか、否か。自分は「場」を作って撮ることが多い。それはテレビの宿命的な部分、短時間で作品を仕上げるためには、確実におもしろいものが撮れそうなことを仕込む。(一応、言っておきますが、これは「やらせ」とは違うので、あしからず。)

で、大ベテランの70代の監督も、「完璧に仕込む」と言っていた。ロケハンで調べ、体験したこと、その事実に出会ったときに、自分が感じたことを、お客さんにも感じてもらうために、同じ場を再現するのだ…と。再現とは、フィクションの再現ではなく、再現できるような場を作る…ということである。そこには、常に客の視線がある。

それについては、海外で30年ドキュメンタリーを撮ってきた監督も同じだと言っていた。その場を作り、対象のひとから「なにか」を引き出す…。

一方で、そういった場を作らずに、撮影し続けるタイプのひともいる。ひたすらその環境に溶け込み、カメラの存在を忘れさせることで、対象の普段の姿を引き出して撮るというやり方。こういう方法があることはわかる。自分はやったことがないけど。

前者のやり方は、よりドラマ的だし、ベテラン監督に言わせると、ドキュメンタリーも劇映画も作り方は同じだ…と。そうかもしれない。

ホームビデオと作品のちがいは、撮影しているときに見せる相手=お客さんのことを考えているかどうかじゃないか…という話にもなった。

それと、面白いなーと思ったのは、「撮り損なった時に、撮りたいものがわかる」ということ。これは、海外30年の監督が話してくれたのだけど、なにかを撮影していて、撮影を終える。終わってほっとしたとき、対象者が、ある行動を取ったり、ふと言葉を漏らしたりする。その瞬間、「わー今、カメラまわしておけばよかった」と思う。

その時初めてわかるのだという。自分が撮りたかったものが。撮り逃して「惜しい!」と思うものが撮りたかったものなのだと。そうだなーとしみじみ思った。失ってわかる大切さ…みたいなことに近い。

で、撮り逃した!と思ったら、もう一度、そういう行動や言葉が出るような「場」をやはり作るのだと彼女も語っていた。

いやー面白かったし、勉強になった。

70代の監督は、初監督のとき、監督が女性とわかった途端に、照明部に全部の明かりを消されたという。無言の抗議である。そんな修羅場をいくつも抜けて、現在まで作品を作り続けている。そのファイトと言ったら…。

小さなことをクヨクヨしている自分がホントに恥ずかしくなった。

こんなことも仰っていた。どんな汚い手を使っても、撮りたいものを撮れ!うまく行かないスタッフがいたら、切ればいい。とにかく自分を貫け…と。

そんなこんなの監督四方山話で非常に盛り上がりました。励まされたー。目の覚める思いでした。