山田あかねの一喜一憂日記

テレビディレクターをやりながら、小説書いてます。映画も撮りました。脚本なども書いてます。 本、買って下さいね。

ごく普通のひとの普通の暮らし。

イーサン・ケイニンの「エンペラー・オブ・ジ・エア」(短編集)を読んでいる。

翻訳は、名匠・柴田元幸さん!

実は、この作家、少し前まで知らなくて、友人から教えてもらって読み始めた。「宮殿泥棒」「あの夏、ブルーリヴァーで」と来て、今、三冊目。すっかりファンになっている。翻訳されている全著書、読む予定です。

この作家の小説って、ある意味どれも似ている。テーマはいつも家族についてだ。主人公はいつも男性で、彼と彼の家族、時に兄だったり、父親だったり、その家族との確執というか、関係について、淡々と描いていく。

どの小説でも、ドラマチックな展開はあまりなくて、家族との間で起こったこと、感じたことを、静かに書き連ねていく感じだ。ある意味、洗練された私小説みたいに読める。

それでも、充分楽しませてくる。いや、楽しむっていうより、味わうって感じだろうか。こういう小説に出会うと、ああ、そうだ、自分はこういう小説が好きだったんだーと思い出したりする。

時々、わからなくなっちゃうからね…笑。

まだ、次に書く小説の大筋が決まってなくて、というか、テーマも決まってないし、そうなると書き方もね…。この先、どんな風に書いていくべきか…みたいなことをちと考えています。

数日前の朝日新聞の文芸時評に(著者は斎藤美奈子さん)、「書くべきテーマのない作家が多いんじゃないか」みたいなことが書いてあった。在日中国人で、初の芥川賞をとった、楊逸さんは、「いくらでも書くことがある」と言っているのに対して、日本の作家は、どうしてもこれが書きたくて書いたという作品が少ない。そんな感じがすると。

一方、特別の体験を持つひとは、その体験を書きたくなるし、体験している分、読ませるものができあがる確率が高いと…。

確かに、ごく普通の中産階級の生活をし、身の回り1キロくらいをテーマにして、読者を唸らせるのは、ハードルは高い。だから、時代小説のような調査と資料に物をいわせる方向にいきがち…らしい。

そんな日本文学の現状…。

以前、編集のひとに、「テレビの世界で働いていたことは小説を書く上で、財産になる。普通のひとが体験していないことを体験しているでしょう。それを大事にしてください」と言われた。

実際、自分はテレビの仕事をしたおかげで、なかなか会えないひとに取材できたり、滅多に行けない場所に行ったことが結構ある。バングラデシュの奥地にも行ったし、ナイロビのスラムに行ったし、朝鮮戦争の孤児だった方に会ったこともあれば、イタリアの貴族のお城に招待されたこともある。

が、意外にそういったモノは書いないけど…。(というか、まあ、それはテレビの取材で行っているので、テレビ番組にしてしまうからかもしれないが…)。

一方で、イーサン・ケイニンを読むと、ごく普通の人物の日常を描いても、「読ませる」ことこそ、小説の魅力ではないか…とも思ってしまう。

元々、ファンタジーやミステリーにはあまり興味がなかった。凄惨な事件や突飛な物語で読ませるものよりも、ごく普通のひとの心に潜むなにか、起こる出来事を描いたものが好きだった。これは映画にも言えるけど。

そういうわけで、ケイニンを楽しみながら、模索中であります。