山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

犬と子供のちがい。

ミニが重病にかかり、そのことばかりを考えている。

自分は、日頃から、愛想が悪く、非社交的であるが、犬が心配でさらに、挙動不審になっている。

まあ、それはしかたないとして、「犬が心配で…」というと、「犬は家族みたいなものですからね」とか「子供と同じでしょう」と言われることが多い。

確かに、自分にとって犬は、家族のようなものだし、子供と同じくらい愛しているのかもしれない。

が。

どうも、自分は、犬を子供と同じようなもの…という考え方ができない。

ひとつには、子供を持ったことがないので、「子供へ向ける愛情」と同じ…と言えるだけの確証がない。

そして、もしそうなら、犬ではなく、子供を持つべきだったのではないか、犬へ子供へ向けるのと同じ愛情を向け、子供と犬は同じ…と考えているなら、あえて「犬」である必要はなかったのではないか。

自分は、子供はいらないが、犬はいる…という選択をしたのである。その時点で、決して、子供と犬は同じではなかったのだ。子供ができないから、あるいは、子供の代わりに犬を飼った覚えはない。

犬は犬だ。犬は犬だからこそ、好きなのである。

犬は人間ではなく、別の動物であり、人間が作り出した、特別の生き物なのだ。自分はその、「特別の生き物」を過剰に愛しているのである。

なので、現在、犬が病気にかかり、この世の終わりのような気分になっているけれど、それは、子供が病気である状態と、たぶん、幾分ちがう。

犬は人間ではない。…当たり前だけど。言葉もしゃべれないし、まず、自分の痛みを訴えたりしない。具合が悪くなると、隠れようとする。治療を求めるのではなく、運命を受け入れようとしているように見える。

現在、犬猫に関する医療は高度化しており、CTは普通だし、MRIもあるし、抗がん剤もあるし、自己免疫治療もできるようになっている。

これが、子供であった場合、どんな手を使っても助けたいと思うのが親の心情だろうし、それに異論を挟む者はいないだろう。より高度な医療を受けるために、募金をして、海外へ行く子供だっている。

しかし。

犬なのだ。

今週より、うちの犬は入院するため、入院中の食事をこれから作る。鳥・豚、牛などの肉を日替わりで、お米と煮たものを、一日分づづ冷凍して、病院に預ける。うちの食事でリラックスしてもらうためだ。日頃はペットフードも混ぜているけれど、病気とわかった時から、肉中心にして、犬の好きなものにしている。

鶏肉を買って来て、鍋で煮て、ご飯と混ぜやすいように裂く。その時、ふと思う。この鶏も一羽の鶏であったのだと。スーパーで売っている鶏肉だから、あらかじめ、「食べられる」ために生まれてきたのだとは思う。

そうであったとしても、親である鶏がいて、卵からかえり、大人になるまでの数ヶ月を生きて、そして、ここにいるのだと思う。

同じ、動物の命だ。

うちの犬は、とてもハッピーなために、犬としては、高度な治療を受けることができて、もしかしたら、もう少し生き長らえることができるかもしれない。

しかし、この世には、殺されるために生まれてくる動物もいて、また、犬でも、捨てられ、どこにも病気はないのに、一週間後にガス室で殺される犬がいる。

このアンバランスを理解にしながら、犬を飼っている。犬に過剰な愛情を注いでいる。犬にとっては、迷惑な話かもしれなくても、少しでも生きてもらうために、手術をし、抗がん剤治療をしようと思っている。

そこには、「子供」へ向ける、まっすぐな迷いのない愛情とは、絶対にちがうものが存在する。

常に、「自分はなにをしているのか」「これは正しい選択なのか」という問いかけがある。

そのような問いかけを経た上で、犬を大切だと思い、自己満足に至らないように意識しつつ、最善の治療をしようと思っているのである。