山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

本「またね、富士丸」

穴澤賢さんの「またね、富士丸」という本を読んだ。




言わずと知れた、富士丸というシベリアンハスキーとコリーのミックス犬と暮らしていた人気ブロガーの本だ。

私も富士丸ブログのファンだったけれど、去年の10月、突然、富士丸は死んでしまった。その時はとても驚いたけど、その後、ブログを読みに行く事も少なくなってしまった。

あれほど愛していた犬を突然失ってしまったのだから、悲しみはいかほどだろうと思ったけれど、ブログには、そういった悲しみがあまり掲載されることがないまま、過ぎていったように思う。

そして…。

自分も同じような目にあい、行き場をなくして、うろうろしていたときにふと思い出したのだ。あの富士丸をなくした飼い主は今はどうしているだろう…。

ブックマークになっていた富士丸ブログにいくと、ちょうど、この本が出版されることを知った。それまで語ることのなかった、富士丸をなくしてからの日々…と説明にはある。あーもう、絶対読まなくっちゃと思った。

だって、あれほど犬を愛していたひとが突然犬を失ったんだもん、その悲しみの深さはいかほどだろう。きっと自分が今、落ちているのと同じ場所にいるだろう。いったい、そこからどうやって脱出したのか、生き延びたのか。それとも、一年たってもなにも変わらないのか…。

それを知りたいと思った。

だから、アマゾンから届いているのを見つけて、家に帰ってすぐに読んだ。途中で何度も泣きました。それは、富士丸という犬に対して…というより、自分もまったく同じような喪失感を抱えていたから。何度もシンクロしてしまった。

また、富士丸の写真がかわいいんだよなあ。

でも、一方でよく写真を選べたなあって思う。わたしはまだ、写真を見ることができません。なので、デスクトップに張っていた写真も変えたし、なるべく写真を見ないですむようにしている。

iPhoneの待ち受けだけが変えることができないので、毎度、手で隠して作業してる。胸が張り裂けそうになるからね。

富士丸の本は、共感できることばかりだった。ご飯が食べられないとか、息が苦しいとか。

ああ、そうなんだよなあ。深く深く犬を愛すると、こういうふうになっちゃうんだよなあって。

自分はまだ、時間があまりたっていないので、客観的になれないけど、ペットロスカウンセリングの先生が(実は、カウンセリングを受けています)悲しいときは、抑えないで泣いた方がいいって言ったし。悲しみに浸ることを許している。

それでも、仕事先のひとから、気味悪がられないようには工夫しているつもり。できるだけ、迷惑はかけないようにしているつもり。たいてい、いつも頭のなかは、ヘンだけどね。

富士丸の場合は、家に帰ったら、すでに亡くなっていたそうだ。それもつらいだろうなあ。飼い主としては、せめて、おれの腕の中で死なせたかった…と思うようだ。そうかもしれない。

でも、腕のなかで死なれるのもすっごいつらいんだよね。なにもできないんだし。その瞬間が強烈に残るんだし。

それでわかった。どんな死なれ方をしたって、飼い主は自分を責めるって。後悔しつづけるって。犬に謝り続けるって。

どんな死なれ方だってつらいってこと。そして、夢だったらいいのに…と何度も思うということ。

そして、また、会いたいって思うこと。さよならじゃなくて、「またね」ってこと。

同じなんだなあ。みんな、そう思うんだなあ。そう感じると少し楽になった気がする。

わたしはまだ、信じられないってところにいるけど。あり得ないってまだ思っているけど。なんかおかしいって。

でも、自分には、自分のなかだけの思い出があって、それはなにがあっても消えないし、汚されることもないって一方で思っている。

ほんとうにほんとうに大事だったからね。大好きだったからね。