山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

誰にも読まれない小説を書く男。

たくさんのひとが集まる新年会に行って、そこで初めて会ったひとから聞いた話が、頭から離れない。

で、その話の登場人物について、書く。

それはこんな話だった。

話してくれたのは、30年近く前、大学で自主映画をやっていたひと。その方自身はしごくまっとうな社会人であり、幸せそうな方である。

彼の話によると…

久しぶりの集まりにかつての自主映画仲間がひとり現れた。その男は卒業後、定職につかず、女性に食べさせてもらっているらしい。「ヒモ」ともいう。

で、その男は酒の勢いもあり、暴言を吐き続けた。その場の雰囲気をぶち壊し、同席したひとたちを不快にさせた。

暴言の内容がなんであったのか、爆発したきっかけがなんであったのかまでは聞かなかった。

これだけなら、よくある話かもしれない。酔って暴れるひとは多いし。

けど、自分が惹きつけられてしまったのは、その暴力男が、実はずっと小説を書いている…と聞いたからだ。しかもそれは、誰にも読ませるでもなく、ひたすら、書き続けるだけらしい。

軽く30年近い年月、そうやって生きていることになる。

いや、もしかしたら、かつて文学の賞に応募したとか、編集者に見てもらったとがあるかもしれない。けれども、日の目を見ることなく、出版されることもなかっただけなのかもしれない。

が。

たいていのひとはそうなると、小説を書くのをやめる。やめて、なにか仕事を見つけ、いわゆる普通の暮らしを始めるんじゃないだろうか。或いは趣味として、仕事に差し障りのない時間に書く。

でも、そのひとはそうせず、誰にも見せない小説を書き続けている。

その部分に衝撃を受けたのでした。

そして、そうやって引きこもっているひとが、久しぶりに大学の仲間が集まるところにでていき、みんなを不快にさせる言動をしてしまう…ということも含めて、心を動かされたのだった。

そのひとの孤独を思って。

この話で気がついたことがいくつかあった。

もしかして、昔の文学者と言われる人たちには、こういう感じのひと(売れない小説を書き続けながら、女に食べさせてもらう)が多かったんじゃないか。ちょっと想像するだけで、太宰治とか檀一雄なんかはそういうタイプではないかしら。(もちろん、彼らは「売れた」けど)。

で、今ってもはや、そういう「男の夢」につきあってくれる女って減っただろうなーと思った。

売れない作家、売れないミュージシャン、売れない監督…を支える女。

「支えること」に自分の生きる意味を見つけるというのもよきことだと思うけど、女の側にも自分の夢があって、それを実現できるチャンスも増えたので、男の夢にばかりつきあってもいられない。

なので、夢に生きる男を支えてくれる女は減った。

それでどうなったかというと、代わりに「お母さん」が頑張るんだよね。ひきこもってすきなことをしている男を支えるのは、今は、「お母さん」なのだ。昔は、恋人とか愛人とか妻が頑張ったのかもしれないけど。

そう考えると、昔の女の役割りって、結構、「お母さん」に近かったんじゃないか…。

…という時代の移り変わりと女性史的な見方がひとつ。

そして、もうひとつは、そのひと、その小説をネットで発表すればいいよな…と思った。そこには編集者も賞の審査員もいないから。けど、読んでくれるひとと知り合えるかもしれないから。

さらにもうひとつ。

その時は、その話をしてくれたひとに、なにも言えなかったけど、「これからも、そのひとを飲み会に誘ったほうがいい」と思うこと。

ひきこもっていると、どんどん世界が狭くなって、だんだんきつくなるから、暴れて不快でも、昔の縁ってことで、誘ってあげたほうがいいよなあって思った。

暴れるってことは甘えるってことだから、そのひとには他に甘える場所がなくなっていて、そして、爆発しないといけないものが体のなかにたまっているってことだから、それをできるのは、数少ない友達ではないかと。

そういうことを思った。

自分はヒモじゃないし、とりあえず、仕事してるし、一応書いたものが出版されているけど、「誰にも読まれないかもしれないものを書き続けてる」ことと、暴れたくなる気持ちは、わかる気がするから。

それとも、これは、全然違う話なんだろうか。