山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

薄明かりの中で。

正直に言えば、去年の10月から時間は止まったままだった。

というか、心は固まったままだった。

10月21日の早朝にミニが死んだ。人生でこんなに悲しい出来事はなかった。小学生4年の時、家族のなかで一番慕っていた祖父が亡くなった。その時もこれでなにもかも終わりだと思ったけど、あれ以来というか。

その後の人生で親しい友人が亡くなったり、リコンをしたり、実父も亡くなっているのだけど、なぜか、ミニの死はこれまでじゅうで一番、こたえた。なぜだかわからない。犬なのに。

理由なんかわからなくても、ミニを失ったことは自分でももてあますほどの衝撃だった。どうしていいかわからなくなった。生きている心地がしなかった。

そうは言っても、仕事はしていた。四つくらいの脚本書いたし、演出もしたし、企画書とかいろいろやった。やったけど、それをやっているのは、別の自分で、長い間、訓練したので、その成果によって、冷静に仕事することができたのだ。

悲しんでいる自分とは別の生命体として。

それがいいことなのかどうかわからない。そんなに悲しい時にさえ、殺人ドラマも書けてしまう自分なのだ。

けど、真実は、ずっと底のほうに悲しみがあって、未来のこととか、前向きないっさいを考えることができなくなった。計画をたてることができなくなっていました。

それが。

ここ最近、ようやく、これから先も人生は続くんだ。生きるのだ…ということが実感できるようになりました。少し前向きに考えられるようになりました。

たった半年だもの。いいよね、この期間、朦朧としていたとしても。

次にこれをやろう、とか、こんなことを書こう、とか、やっと、前向きになってきた。

時々、ふっと、「どうでもよくね?」という気持ちももたげるけど、気づくとまた、「これを書こう」「あれを撮ろう」と思っておる自分がいる。

…という現在の自分でした。

けど、こういうふうに、強い悲しみを抱えると、ひとが変わるんだ…ってことを学んだような気がする。ドッグシェルターで働きたいと思うのも、「絶対不幸な犬」と対面したいからなんだよね。

あらたに犬を飼うことはできるけど、それは幸せな家庭の犬だ。なんか、その「幸せ」に耐えられそうにない。慣れそうにない。

それより、不幸のそばにいたい。悲しみのそばにいたほうが落ち着く。そういう気持ちがする。

そんなの本当のボランティア精神じゃないよ…と言われたらそれまでです。かわいそうな犬を助けたいという純粋な気持ちと同時に、かわいそうな犬のそばにいることで自分が安心したいという思いがある。

強い悲しみを経験したひとの気持ちが初めてわかるような気がしている。

(ドッグシェルターの犬=絶対不幸…と思っているわけではありません。救われようとしている時点で幸福であることはわかっていて書いています。文脈を読み取っていただけるとよろしいのですが)。