山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「監督失格」

友人の映画監督、吉田大八氏より、「ぜったい見たほうがいいです」というメールをいただき、試写会に行って、「監督失格」(平野勝之監督)を見て来ました。

これを「愛の映画」とされる方もいると思いましたが、自分は、愛というより、撮り続けるとはなにか、事実を撮ることはなにか、もっと言えば、ドキュメンタリーとはなにか、…という根本的な問題をつきつけている作品に思えました。

ざっくりあらすじを説明しますと、平野勝之さんというAVの監督と、彼と関係の深かった、林由美香さんというAV女優の15年近くに及ぶ関係を撮したものです。

…と書いてそれで説明したことになるのか…と立ち止まってしまいます。

映画で述べられている事実から書くと、平野監督と林由美香さんは一時、恋愛関係にあり、その頃、東京から北海道まで自転車で行く…という旅をしました。これは、AVの企画もののようですが、まず、これだけでもすごいです。

一ヶ月、本当に旅をして、撮影しつづけている。そのAV作品を見ておりませんが、なんというか、そういう種類のAVもあるんだ…ということにまず驚きました。

いえ、自分の友人には、AVの監督もいるし、昔昔ではありますが、AV女優さんのドキュメンタリーを作ったこともあり、多少なりとも、知っているつもりではありました。

でも、知らなかった。そんな一ヶ月かけて撮るAVもあるんだってこと。

そのようなかなりユニークな作品を撮り続けている監督さんのようです。平野さんは。

映画中でも、「抜けない監督」って形容詞がありました。AVのかたちを借りながら、自分の撮りたいものを撮っていく…というスタイルなのでしょうか。

そのような過去があり、この映画は存在しています。映画の前半(…か半分以上)が、北海道の旅で、この監督の目線による、由美香さんという女優さんのドキュメントです。

ひたすら、由美香さんを撮り続ける。ある意味、それは愛だと思うんですが、なんで、撮り続けることが愛なんだろう。カメラをおいて、愛することだってできるはずです。

でも、この監督はとにかく、撮る。撮りたい。この監督にとって、愛とは撮り続けることなんだ…って思いました。

一方、由美香さんという方も、「撮られたい」。あるいは、撮ってほしい…というか、ふたりの間には、まず、カメラがある。

タイトルの「監督失格」は、ふたりがけんかをするという肝心なシーンを平野さんが撮影していなかったことに対して、由美香さんが発するセリフです。

肝心なシーンを撮ってないなんて、監督失格…と。

しかし、冷静に考えたら、恋人同士であるふたりにとって、ケンカのシーンを撮ることのほうが異常ですよね。撮っていたら、監督としてはともかく、恋人失格なのではないか。

つまり、この二人にとって、カメラが廻っているというのが日常というか、あるいは、カメラを介することが日常になっている…すごく不思議な関係です。

なんでそこまで撮り続けないといけないのか。

それはもう、AVのためじゃないはず。抜けるとか抜けないとかのレベルではもちろんない。いったい、なにを撮そうとしているのか。

AVですから、セックスシーンなどもたくさん撮影したきたのだと思います。そして、恋愛関係だから、性的結びつきもあったでしょう。でも、そんな肉体によるつながりなど、ずいぶんと超越してしまっているように見える。

というか、プラトニックにすら見えてしまう。

まず、この不思議な関係があって、でも、それだけではこの映画は誕生しなかった。

由美香さんが不慮の事故死をする…ことが、そして、その場に、平野監督が居合わせ、カメラが廻っていた…ということが、この映画を誕生させてしまった。

だから、この作品はなにかの意図によって、「撮ろう」として始まったものではなく、撮れてしまったものを、作品にしてしまった…そうしないといられなかった…ように見えました。

実際、平野監督は映画のなかで、「映画として完成させることに気が乗らない」みたいなことをつぶやかれている。でも、結局、いろんなことに導かれるようにして、作品にしてしまった。

そういう部分が、撮るとはなにか、ドキュメンタリーってなにか…と問いかけてくる。

最初は、林由美香という女優…いえ、ひとりの女性を見つめる目であったのに、途中から、主人公は、彼女を見つめ続けてしまった、自分(=監督)に入れ替わってしまう。

入れ替わる…というより、作り手が前面に出てきてしまう。

通常のドキュメンタリーのルールからいったら、掟破りの感がある。(もちろん、ドキュメンタリーに絶対のルールなんてないし、それぞれ自由であっていいのだけど、テレビにおけるドキュメンタリーには一定のルールというか、フォーマットが存在する)。

しかし、この映画が強烈なのは、そんなルールなんておかまいなしに、ひたすら撮り続けたものが、つながって、存在して、熱を帯びている…ということ。

その圧倒的な強さ。

それこそが、本当は「撮る」ことだし、ドキュメンタリーの本質だったのではないか…という気持ちにさせられた。

もちろん、編集されているのだから、意図的であるだろうし、実際、意図はあるのだけど、そういうふうにしか存在できなかった強さがあった。

監督が女優を愛していた…という単純な愛の物語にしてしまうのは、なんだかちがうと思った。

撮るということが、ふたりにつきつけたもの…対象にカメラを向けることの意味…みたいなもの。

カメラを手にしてしまった自分たちの、映ってしまったものに対する畏怖のようなもの。

それが十全に映し出されていることの怖さ。

その怖さに呆然とした、2時間だった。