NHKの教育テレビを見たら、「離婚式」なるものを取材したドキュメントを放送していた。
離婚式とは、離婚する夫婦が、関係者を招待して自分たちが離婚することを知らせる行事である。
かつて、「離婚式」という小説があったと思う。
それはともかく。
概念としては「離婚式」を知っていたけど、本当にやっている人がいる…というのにまず、驚き、よしんば、離婚式をやったとしても、それを、テレビに取材させる実際の夫婦がいる…ということで、2度驚いた。
なので、たいへん興味深く見てしまった。
(取材に応じられた方、すみません)。
私も離婚をしているけれど、離婚というのは本当に大変な出来事である。心身ともに疲れ切り、こんなに大変なら、もう2度と結婚しません、すみませんでした…という気分になるものである。
(もちろん、そんなマイナスを背負わずに、スイスイ離婚できる方もいらっしゃるだろう。そういう人は、関係ないので、スイスイ生きていってほしいと思う。私には理解できないけど…)
で、離婚式を取材した番組を見ていて、ちょっとだけ、「離婚式」の意味が理解できたのである。
それは「お葬式」に似ている。
お葬式も儀式の一つである。あの儀式を行ったからといって、亡くなった人が戻ってくるわけではない。
なぜ、そのような儀式が存在するかと言えば、死はあまりに衝撃的な事件だから、死に接したひとは、尋常ではいられなくなる。その尋常な状態を少しでも緩和したり、まわりのひとと共有したりするために、儀式は存在する。
もともと宗教の始まりにはそういう部分がある。死の恐怖から逃れるため…というか、死を解釈することで、生きる指針を見つけるためとか。
根っこには、死への恐怖…恐れがある。
で、そのようなどうしようもない感情に対しては、儀式が有効であったりする。
祈る、捧げる、供える…などの行為を通して、気持ちを落ち着けていくのだ。
お葬式などはやはりその効果があると思う。時間が稼げるという部分もある。
で、話を離婚に戻す。
離婚もまた、死にも近い、辛い別れである。この別れを受け入れるのはなかなかきつい。
知り合いの女性で、離婚後、熟女AVに出てしまったひとがいる。離婚の痛手を引きずって、それから解放されるために出たようだ。
私も、離婚の痛手から小説を書いた。離婚とは全く関係ない青春モノを書いたけど、この「書く」という行為によって、いくぶん、深い闇から抜けられたように思う。
かように、離婚による痛みから抜け出すには、なにかが必要なんだと思う。もちろん、離婚して、すぐ次の人と再婚、しゃーわせ!というひとはそれでいい。
でも、この世には「そうはいかない」人がたくさんいて、傷を抱えたまま、何年も右往左往するのだ。
そういう人にとって、「離婚式」という儀式は少しは意味があるかもしれない。儀式には、心を決めたり、整理をつけさせたりする効果があるから。
そういう意味でこの番組は新鮮だったし、取材を引き受けた夫婦はあっぱれだと思う。よくぞ引き受けた。
けれども。
番組の終わりで、この夫婦、離婚式をやったことで、結婚を見直すことになり、「もう一度やり直すことに決めました」といったような報告がされていた。
ええ?
それはちょっと違うのではないかしら。
ここに、結婚=よいこと、離婚=悪いことの図式がちょっと見えた。
確かに離婚はつらいことだけど、そういう選択をしないといけない時だってある。なにも結婚し続けることだけがいいこととは思えない。
離婚を受け入れるための「離婚式」じゃなかったのか。
復縁するためのものだったら、「離婚式」をする動機がぶれる。まだ、そんなに未練があって、修復可能なら、離婚式以前にやることあるんじゃないか…と思ってしまう。
それとも、復縁も込みで、「離婚式」をすれば、結婚を見直すことができる…ってことなんだろうか。
でもなー。
結婚を見直そうとしているカップルの気持ちを定めるために、パーティーが開かれて、招待されてもなー。
でもって、後日、「やっぱり、離婚はやめました」という連絡を受けてもなー。
そんな夫婦げんかにまわりを巻き込むなよなーという気分になるのではないだろうか。
もう別れるしかありません!という決意のもとにやってほしいな、離婚式…と思うのでした。
長い人生のなかで、離婚してよかったのかどうかは今もわからない。けど、その時はそうするしかなかったんだと今でも思う。
離婚したことでなくしたこともいろいろある。
でも、離婚しなければ、たどり着けなかったこともいろいろあるのだ。
いつも思う。
別れは最悪の結末ではない。
「結婚していること」はもはや、それほどの意味はない。そこにあまりに大きな意味を求めすぎると、結果、痛い目にあうような気がする。
…そんなわけで、離婚について、久しぶりに考えてしまいました。