山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「死ね!死ね!シネマ」

このところ、映画を見たり、舞台に行ったり、本をまとめ読みしたりしていて、とても忙しい、または充実している。

ここ数ヶ月、テレビの仕事に追われて、インプットができなかったので、内部がカラカラになった感じで、砂漠で水を求めるごとく、暇になった途端に、映画三昧、読書びたり、舞台行きをしております。

で、ついつい、見たものがたまってしまって、書くのが遅れました。

(本については、あんまり書かないことにしています。映画と舞台とテレビはいいんだけど、本、特に小説については、自分の好みの偏りが激しいため、秘密にしております…って誰に断っているのだか…)

で、ここのところ見たものをとりあえず、列挙すると…

映画「死ね!死ね!シネマ」(篠崎誠監督)

映画「トランスフォーマー・ダークサイドムーン」(マイケル・ベイ監督)

映画「モールス」(マット・リーブス監督)

テレビドラマ「フラッシュ・フォワード」

テレビドラマ「glee」

舞台「クレイジーハニー」(本谷有希子演出)

ざっくりこんな感じ。忙しいったら、ありゃしない。

で、またもや、誰に頼まれたわけでもないですが、見た順にやっぱり感想を書こう。面白かった順でもいいけど、律儀なのでやっぱり、順番は守るのだ…。

まず、「死ね!死ね!シネマ」です。

衝撃的なタイトルですが、内容もまた衝撃的です。最初にこの映画の存在を知ったのは、ツイッターでした。

いくつかのツイートで、この映画について語られているのを見て、最初は、「なんて、タイトルだ。こんなタイトルをつけるひとの趣味を疑う…」と、正直思いました。

そして、多分、若い自主映画の監督の作品なんだろうと思ったのです。こういうタイトルをつける…ということは、「見てもらいたい」という気持ちを放棄している、見るひとのことを考えていない、いたずらに衝撃的なタイトルをつけるとは、内容がついていっていないのではないか…と邪推したわけです。

年寄りの偏見ですね。

しかし、あまりにこの作品に対するツイートが多くて、しかも、その感想がかなり見過ごせないものだったんですね。手放しの絶賛ではないけど、「なにやら普通じゃないもの」らしいことがわかる。

そして、調べてみると、なんと、監督は、篠崎誠さんではないか。

おお、決して若い無名の監督のものではなかった。

篠崎さんとは、すっごい昔、テレビドラマの撮影の時にちらっとだけお会いしたことがある。橋口亮輔くんが脚本を書いたドラマの演出を自分がしておりまして、(@その朝、ひざしの中で)、ちょっとだけ出演されたわけです。確か、バーテンダーかな。

でまあ、それはともかく。しっかりとした演出力のある、実力派の監督さんである。

そのひとが、なにやら、とんでもないものを撮ったらしい……のようなことが、ネット情報を通じて理解できた。

これはもう、自分の目で見るしかない。誰かがほめても、けなしても、自分がどう思うかを知りたいし、見たいもんね。

それで、ぎりぎり、最終日に渋谷に行きました。これがもう、満席。期待にあふれる映画好きのひとで客席はうまっていました。

いや~見始めて、倒れそうになりました。おーおー。

ざっくりあらすじを説明すると、主人公は…う~ん、主人公は誰なんだ?…多分、主人公は映画の魂ではないでしょうか。

映画とはなにか、映画はどうあるべき、これから先、映画をどうとらえていくか…についてがテーマであり、主人公ではないでしょうか。

一応、ホラー映画の体裁をとっています。でもこれは、ホラー映画に託した映画論ですよね。映画愛か。

主人公は一応、映画監督のシマザキマコトさんです。海外の映画祭で受賞暦のある監督で、最近「トウニョウ島」というメジャー作品を撮ったひとです。

つまり、篠崎誠監督自身の投影とも思える方です。(篠崎監督の最新作は「東京島」)。

この監督が、映画学校の生徒の上映会で挨拶するところから始まる。この生徒の作品(ホラー)をいきなり、罵倒し始め、罵倒がヒートアップし、暴れ始め、凄惨な殺人事件へと発展する…。

これをきっかけに、この監督とホラー映画と、映画とはなにかというテーマを元に壮大な物語が展開されるのです。

なんかもう、ひやひやとゆうか、痛かったり、ちょっと笑ったり、とにかく、全身全霊でぶつかってくる感じです。

この作品を撮らなければならなかった、あるいは、撮りたかった監督の思いがストレートに表現されているようで、中身はちがいますけど、「監督失格」とある種似た、このひとにしか撮れない、唯一無二の作品に仕上がっていました。

あるいは、私小説ならぬ、私映画。

いろいろほころびみたいなものはあるにせよ、自分はこういう、「この人にしか撮れない、ざわざわしたもの」がとても好き。

それがさらに確認されるのは、併映されていた同じ篠崎監督による「殺しのはらわた」を見るとわかる。

だって、この作品を見ると、この監督がいかに緻密に美しい映像とカット割と、演出で、きっちりしたドラマの世界を構築できるか…がわかるから。ちゃんとプロなんです。(いえ、当然かもしれませんが)

こうやって、きちんとドラマを美しく撮れる監督が、あえて、破綻というか、暴力的なテーマと構造を持つ作品を撮る…ということのすごさです。

陳腐な例かもしれませんが、デッサン力のある画家が、自画像を思いっきり描いた感じ?あ、ちがうかな。なんかとにかく、
作ったひとの顔の見える作品なんです。

だんたん、最近、「よくできた、洗練されもの」にますます関心がいかなくなりました。(ま、昔からそうだけど…)

よくできた物語に興味ないんだよね。それより、作り手の手触りの感じられるものがすき。生でおいしい刺身みたい?

あー自分の比ゆ力に絶望しますが。

とにかく、励まされた作品。映画は自由であり、監督もまた、自由なんだということを強く教えてくれる作品です。一方でそのつらさも…。

どこか、今日みた舞台「クレイジーハニー」にも共通するテーマなんだけど、これについては後日。

それにしても、「監督失格」といい、この作品といい、「クレイジーハニー」といい、作り手が顔を出さずにいられない作品が増えつつあるのでは?

これはいったい、なにを意味しているのだろう。

作り上げられたドラマに対する、作家側の不信感、停滞感、などだろうか。

このテーマについては、後日。