山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

ヤリマンとフェミニズム

9月4日、日曜日、新宿のロフトプラスワンで行われた、「ヤリマン総選挙」というイベントに行って来た。

なかなかすごいネーミングである。ストレートに書くのは勇気がいる。これまでは、「ヤリ○ン」などとごまかしてきた。

が、それじゃあ、これから書こうとすることの主旨と違ってくるし、自分だけ安全な場所にいて、何かを語るというのもなんなんで、このままいかしていただく。

なので、以下、結構過激な言葉が出てくると思いますが、ご容赦を。

「ヤリマン総選挙」とは、6人の女子が登場して、そのなかで誰が一番「ヤリマン」かを競うイベントである。

これは昨年も開かれていて、その時は、「やりわんグランプリ」だった。去年はツイッターでこのイベントを知り、「ひやー何をやるんだろう」と興味をひかれて出かけて行った。

とはいえ、歌舞伎町のど真ん中にあるロフトプラスワンに行くのも初めてだったし、なにやら怪しい雰囲気もするので怖かった。いわゆる、風俗的なイベントだったら、どうしよう…。つまり、ストリップなどの男性向けのショーだった場合、困るな…と心配だった。

もちろん、長い人生、ストリップ嬢、AV嬢のドキュメンタリーも作ったことのある身である。それだけでびびって帰るほどやわではない。

けどさ、普通の男性向け、エロだったら、今更とりたてて見なくてもいい…と思っていたのであった。

ところがさー、このイベント、登場する女子自らが、「ヤリマン」と名乗りを上げ、それぞれの性体験を告白し、どころか男を落とすテクニックまで披露するという、誠に、女子主体のイベントだった。(お客さんは男が圧倒的に多かったけどね)

あーここまで、今のコたちは自由に明るく性を語れるようになったんだなーあっぱれ!というのが昨年の感想であった。

その後、当時の出演者たちとも親交を持つようになり、今年も晴れて出かけて行った。

今年も主旨は同じで、6人の女子が「ヤリマン」ぶりを競うのである。

今年のメンバーは、大泉りか(作家)、ドルショック竹下(漫画家)、神無月ひろ(アイドル?)、はるうらら(自称11歳?)、りえ坊(主婦?)、真咲南朋(AV監督)。こう書いても、どんな人々かわからないかもしれないけど、20代から40代までの、明るく面白くエロく、正直な人たちである。

彼女たちが、男をその気にさせるテクを実際やって見せたり、エロい特技を披露したり、これまでで一番過激な体験を告白したり…まあ、ショーマンシップにあふれる、楽しいものであった。

で、最後に誰が一番のヤリマンかを客席からの投票で決めるのであるが、自分がこのイベントに惹かれたのは、「やらされている感」がないからであった。

ながらく、この手のものは、男が企画し、そのシナリオに従って、女子がエロを演じるものだった。そして、もちろん、お客さんは男だ。男を喜ばせるためのもの。まあ、風俗と変わらない。

そこにあるのは、男の望むエロをやってみせる女の姿だ。彼女たちが望んだものではない。

けどさ、このイベントはね、その「やらされ感」がないのだ。(プロデュースしているのは、登壇者のひとり大泉さん)

登壇する女子たちが、自分のエロス体験を堂々と語る。それは男目線じゃない。男に受けるために語るのではなく、正直に自分の欲望を語るのだ。

だから、時にそれは、『男からひかれる」こともある。でも、そこにあるのは、「彼女自身の欲望」なのだ。

もしかしたら、ヤリマンとは、自分の欲望に正直に行動する女のことかもしれない。

これまで、「ヤリマン」とは、蔑称であった。(というか、今でもかなりそうだ)。男の場合、たくさんの女性と関係しても、『自慢」や「誇り」になるけれど、女性の場合は、急激に価値を落とすものだった。

「ヤリマン」という烙印を押されることは、女という市場のなかではその価値を著しく暴落させるものだった。

でもさ。

おかしいよね。なんで、男ならokで、女だったらダメなのか。

それを説明する言説は山ほどあるだろう。妊娠でも母親でも倫理でもなんでもいいけど、今更聞きたくない。

そんな風説をはねのけるように、舞台の上で自分のエロさをどんどん告白する彼女たちに、あっぱれ!と思った。その正直さ、明るさに本当にしびれたのだ。

しかし、話はこれで終わらない。

実は、私は、7月9日に東京大学で行われた、上野千鶴子さんの講義のDVDを作っている。講義を収録したものに解説を加えたDVDブックである。(講談社より今秋発売予定!)

上野千鶴子さんと言えば、いわずとしれた、大フェミニストである。テーマは「生き延びるための思想」であるが、その大半が、フェミニズムとはなにか…なんだったか…を問いかけるものである。

その講義を深夜、じっくり聴いていた。なかに、ひざを打つような言葉がいろいろ出てくる。

「フェミニズムとは、弱者(=女)が強者(=男)になろうとした思想ではありません。弱者が弱者のまま、尊重される社会を作ろうとした思想のことです」

パチン!(ひざを打つ音)

…つまり、女が男並みに強くなるのを目指すのではなく、女のまま、生きやすい場所を作ることを目指したのだ。

もうひとつ。

「私が過去40年に渡ってやってきたフェミニズムというのは、社会的弱者の自己定義権の獲得運動だったのだ」

バチン!(ひざを大きく打つ音)

つまり、「ブスは女じゃない」「あがったら女じゃない」「男を欲情させない女は女じゃない」など、これまで「女」とは、外から、つまり、男の側から評価されるものであった、ということ。

たとえば、「やりまん」という言葉も男が女に一方的に名付けるものだった。そして、そう名付けられた女はその評価のなかで生きるしかなかった。

その評価はかなり低いものであって、その刻印を押されたものは、同じ女性からも蔑視され、一生拭うことのできない、強烈なものだった。

自分のことなのに、自分で自分を評価することが許されなかった。

けどさ。このイベントを見てたら、登壇する女子たちが、自らを「ヤリマン」と名乗り、それを卑下したり、否定したりしないのだ。むしろ、楽しんでいる。

ヤリマンの自己肯定である。ここが上野さんの論説とつながる。彼女たちは獲得したのだ、自己定義権を。

自分で自分を定義したのだ。これって、歴史的なことじゃないかしら。

もちろんね、別に、性体験が豊富なことが正しい!とか素晴らしい!とかそれを目指せ!と言ってるわけじゃないんです。男でも女でもゲイでもレズビアンでも、自分の性生活は自分が決める権利があって、それを外から批判されたり、評価される必要はないってこと。

この至ってシンプルなことが、長い歴史のなかでは、叶わなかったんだよね。

かつては結婚するまでバージンじゃないとダメとか、性体験の多いものは「汚れている」とか、さまざまな外からの定義があったわけですよ。

それらからホントに自由になったんだなって。

イベントの打ち上げで、ふと、東電OLのことが話題になった。彼女もまた、ヤリマンだったかもしれない。けどきっと、彼女は、自己肯定できなかったヤリマンなんじゃないか。だからこそ、自分をどんどん追い込んでしまったんじゃないか。

なぜ、自己肯定できないかと言えば、自分が自分を決める前に、まわりが評価を下すからだよね。全否定してくるからだよね。その集中砲火のなかで、自分を肯定するのはものすごくむずかしいことだ。

だけど、少しずつ、女性たちが自分を自分で肯定していったんじゃないかな。その歴史の先に今があると思うのだ。

なので、一見、かなりおバカなイベントなんだけど、その意味するところは、深いんだ。

そのことを書きたかった。うまく伝わっただろうか。