山田あかねの一喜一憂日記

テレビディレクターをやりながら、小説書いてます。映画も撮りました。脚本なども書いてます。 本、買って下さいね。

映画「東京オアシス」

そんなわけで、試写でみた、「東京オアシス」の感想です。

「カモメ食堂」以来の、小林聡美さん主演作ですね。

このシリーズについては、一貫して同じ感想を持っています。

それはこれまでの日本映画では決して撮られたことのなかったものだってこと。

ストーリーとかテーマとかってよりも、主人公の描き方、スタンスが新しいと思っています。

それは、主人公の女性が、誰かの「母」でも、「妻」でも、「恋人」でも、「妹」でも、「愛人」でも、「娘」でもないってことです。

たとえば、古典の「蜻蛉日記」の作者は、藤原道綱母だし、「更級日記」は菅原孝標女だったりします。これって、藤原道綱の「お母さん」、菅原孝標の「娘」って意味ですよね。

作者の名前ではなく、家族の長=男との関係によって、その存在が明らかにされているんですね。

もちろん、源氏物語の作者みたいに固有の名前もありますから、全部そうだ!なんてゆってません。例です。
いわんとしていることをわかりやすくするための。

で。

なんつーか、邦画における、女性のスタンスって、かならず誰か男性との関係によって、成り立つものだったんじゃないかってことです。

例にあげた、「蜻蛉日記」は平安時代の作品なんですけど、映画って近代のものだけど、そこを流れる意識は案外、平安レベルであった…と言えなくもない。(特に女性の立ち位置については)。

つまり、いつでも、女性は「性的な存在」としてしか、映画のなかに存在できなかった。

すみません。ある意味、わたしの映画のなかでも、主人公を思い切り「性的な」存在として描いています。それはもう、この原作を書いた時点から、というか、生まれてからずっと、女性を性的な存在としてとらえることしかできなかったからです。その反省をこめてつくっています。

そこへいくとですね、この「東京オアシス」の主人公や登場人物たちは、いっさい、「性的な」においが消されているわけです。性別不問なんですね。

それをやりきる強さは毎度すばらしいと思います。勇気あるなーと。

今回は、小林聡美さん演じる女優さんが、撮影現場を抜け出し、都内で3人の人物と出会う物語です。いつものようにとりたてて大きな事件は起こりませんが、そこで出会うひとたちもまた、性的存在ではないんですね。

すっごい当たり前な話ですが、ひとは常に性的存在として生きているわけではない。けれども、ドラマや映画になったとたん、その部分が拡大されてしまう…という歴史がありました。

たとえば、アダルトビデオの存在を見てもわかる通り、映像ってとっても、「性」を描くのに向いているんですよね。

人々の注目を集めやすい。だから、テーマとして、性的なもの、恋愛とか家族とかが選ばれやすい。

女優さんの美しさを堪能させる…というのも初期の映画の目的だったと思います。

そういうものから自由になるっていうのはかなりの冒険です。

でもそれをね、淡々とずっとやってのけているのが、このシリーズだと思います。

性をテーマにすると、欲望を刺激するので、お客さんの関心を集めやすい。暴力にも同じ効果があります。

「性」と「暴力」っていうのは、映像にしたとき、もっともインパクトを持つテーマですから。

…というわけで、誰の女でもない存在を主人公にすえたことを続けて賛美したいと思います。

当たり前ですが、女性だって、いつも男のことばかり考えているわけではない。男抜きの人生だってあり得る。

それをさらりと描いてみせたからこそ、人気があるんだと思います。

しかしながら、自分は最近になってこそ、ようやく達観できましたけど、長い人生、その魔窟からなかなか自由になれなかったことを告白しておきます。だからね、こういうさっぱりしたものを作ることはままなりませんでしたわ。

今日は、DVDで「スコット・ピルグリム」見ました。面白かったす。これと、「キック・アス」「エヴァンゲリオン」に共通するテーマについて、明日は書きたいと思います。

題して、弱いヒーローたちの登場です。

映画界はマッチョメインの世界なんですけど、(テーマも作ってるひとも)、少しずつ、気の弱い人々の意見が通るようになってきたのかなーと思っております。

時代は少しずつ、変わってるんですよね。おわり。