山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

フツウのひとがおかしい…

アメリカテレビドラマ「ボストン・リーガル」を見ている。

「アリーマイラブ」の脚本家、デビッド・ケリーによる、弁護士ものだ。

いろんな事件を扱うんだけど、「まじめなIT起業家だけど、趣味は女装で、ゲイ」とか、「義足の女性と一度寝てみたい」と思っている老人とか、「妻の殺し方を延々と語る男」とか、バリエーションにとんだ、「おかしなひと」が出てくる。

ここで、「おかしなひと」って書いたけど、ある一点については、「おかしい」かもしれないけど、ほかはいたって、普通のひとだ。

見た目も物腰も職業もちゃんとしてて、立派に働いている。

このドラマを見ていると、「おかしなひと」というのは、わかりやすく「おかしい」わけじゃなくて、ごく普通の暮らしをしていて、普通の感じなんだけど、ある部分だけ、変わっているんだってことがわかる。

あるいは、普通のひとが、少しずつ、おかしくなっているのだろうか。

先日、AV監督の二村ヒトシさんと話していたときのことだ。テーマは最近のAV女優についてだった。

私は、二村さんにこう言った。

「最近は、ごく普通の家の子がばんばんAVに出るようになったんでしょう。昔は、特別なひとしか出なかったのに。もはや、そんな特別なことじゃなくなっているんでしょう」

というのは、友人のAV監督(二村さんとは別のひと……AV監督の知り合い、多いなあ…笑)から、
そんな話を聞いていたからだ。

その友人はかなり、きわどい作品を作っているのだけど……たとえば、母乳AVといって、母乳が出る女性が出演するものや、70代の女性が出る超熟女ものなど、かなりのキワものだ。

そんな作品に出るひとは、さぞや変わった人だろうと思っていたら、そのAV監督曰く、昔は、家がすごく貧しいとか、子供のころ、暴力を受けたとか、ひどい親に育てられたなどの、典型的な不幸を背負ったひとが、脱ぐ場合が多かった。

けど、それは昔の話。今は、ごく普通の家庭の子が、ごく普通に脱ぐと。

へえ、そうなんだ、と驚いたのだった。

なので、「普通の子が普通にAVに出るんでしょう」という前出のセリフになったのだ。

すると、二村監督はこう言った。

「普通の家庭のコがおかしくなっているんですよ」

ほー。

ここで深く感心した。そうか、ごく普通の中流家庭に育ち、ちゃんと学校も行き、普通に生きてきたはずの女子が、カメラの前で、裸になってSEXを見せるのだ。

これって、やっぱり、変なことだよね。

これと同じことが、いわゆる援助交際にもいえる。

援助交際といえば、売春ですが、これもまた、昔は、貧しさから逃れるために仕方なくする女性が多かった。(…と思う)。今でも東南アジア、アフリカなどではそうだ。お金がほしくて、体を売る。

けど、日本で90年代から一気に広がった、援助交際は、こういった売春とは一線を画す。

これもまた、ごく普通の家庭の普通のはずの女子が始めたことだ。

アダルトビデオと同じだ。

そう考えると、確かに、二村さんが言うように、「普通の家庭のこがおかしくなっている」というのは当たっている。

なぜなんだ。

これは女子に限らず、男性でも、精神を病むひとは多い。それほど過酷な環境でなくても、うつ病になったりする。

考えてみれば、私自身もそうだ。

これってなんだろう?なんで、普通のひとがおかしくなっているの。

けれども、「ボストンリーガル」を見てると、アメリカでもそうらしいし、弁護士みたいな知的で社会的信用も収入もある職業でも、「へん」な人は多いようだ。

(ドラマのなかの話ではあるけどさ)

それとも、これは欧米や日本みたいな、裕福で近代化の進んだ国がみんな抱える問題なのかな。

なかでも特に日本はその病が進んでいるよね。ごくふつうの女子高生が売春するんですから。一流企業のOLだってするんですから。

なぜなぜ。

今日は回答の出ないままです。

ひとつ言えることは、「普通のひとがすでにおかしい」

じゃ、すでに「普通」じゃないじゃん。…と矛盾してしまうのだけど。

このテーマはずっと考えてゆきまする。

今日は、銀座で「あしたのパスタはアルデンテ」というイタリア映画を見ました。ゲイのお話ですよん。これについてはまた、後日。