劇団ポツドール、久しぶりのオリジナル新作。
どーしても見るでしょう。絶対、見たいでしょう。
ということで、一週間くらい前に下北沢のスズナリで見ました。
最近、映画とDVDをたくさん見ているので、なかなか、感想が追いつかなくなっておりました。
タイトルの「おしまいのとき」の「おしまい」とは、「人間、終わっている」という意味かもしれません。
そういう意味で、「終わっているひとびと」の物語です。
といっても、振り返ってみると、ポツドールの芝居は、いつも、一般的にいって、「終わってる人々』を描いているかもしれない。
えっと、今回の登場人物は、幼い子供を事故で亡くした主婦とその夫、主婦の愛人、その愛人の同棲相手、その同棲相手の浮気相手、夫の愛人、夫の愛人の夫…というように、「どうしようもないひと」ばかり出てくるお話でした。
主な主人公は、子供を亡くした主婦で、彼女はひどく落ち込むわけですが、夫はそれを救うことができない。
隣の夫婦も、親切にしてくれるけれど、表面的なものなだけに、ちっともいやされない。どころか、うっとおしい。
そんな彼女が、生気を取り戻して行くのは、ある男との出会いでした。
でもそれは、わかりやすい「愛」ってなもんじゃなくて、もう、愛かどうかとかどうでもいい…みたいなことになっていきます。
いわゆる、セックスに溺れます。クスリアリ、エロありです。
なんかねーお互いのだめさ加減が同じくらいの者同士にしか、お互いを救い合うことはできないのではないか…みたいな流れです。
まったく同意します。
それにしても「救い」のない話ではあります。
子供を亡くして、不幸に落ちたひとが、どんどんさらに、つらい感じになって行く。いや、しかし、それは一見「つらい」感じであって、常識的な見方では判断できないのだ。
うーストーリーを書けないと、抽象論になって、つまらないです。
主人公の主婦はいろいろあって、やっと心の平安めいたものを得るわけですが、その最後の笑い、というか、
残っていた欲望に、深く、人間らしさを感じました。
うすっぺらなヒューマニズムには絶対、落とし込まないポツドール。その姿勢は全開でございました。
相変わらず、米村亮太郎氏が、うすっぺらくて、暴力的で、チャラいのに、どこか、魂の深淵を感じさせる、ぶるっとくる演技をされておりました。
魂の深淵って表現もなんですが、なんだろう…。
しかし、「終わってる」ってなんだろう。
なにをもって、「終わり」なんだろう。
アルバイトの延長のような肉体労働。低賃金、先が見えない暮らし。
そういうの、「終わっている」っていうのかな。でも、ちがう気がする。
そんなに単純でもないような。
それでもなんだか、いいじゃないか…という気分にどうしてなれないのだろう、今って。
前にも書いたけど、普通のひとが狂って行く時代、なのかな、やっぱり。
ちょっとまとめられないです。すみません。