山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「アンチクライスト」

…この映画の感想というより、ポツドールの「おしまいのとき」との比較で、「この世でもっともつらいことってなに?」をテーマに考えてみたいです。

「アンチクライスト」というからに、アンチ=反、クライスト=キリストですから、宗教に反するもの、宗教的倫理観にNO!をつきつける作品かと思ってました。

森のなかで、男女がなにやら、かなり性的にはずれたことをするらしい…くらいの前知識はありました。

反・宗教的であり、ふしだらな展開がある…こういう作品を見逃すわけにはいきません……っていばっていうことではありませんが、注目作でした。

しかし、劇場公開には間に合わず、先日、DVDにて鑑賞しました。

始まってすぐ、「あれ?」って思ったんです。それは、先日見た、ポツドールの芝居と結構、似通っているところがあるから。

あ、それ、パクリとかそういう疑いで言ってるんじゃないです。そんなつまらない視点で作品は見ません。

この世に前提の似ている作品などあまたあるし、たとえ、前提が似ていてもそれをどう料理し、どう展開し、どう結論づけるか、こそが作り手の腕の見せ所とと世界観の開示ですから、そこを見たいわけです。

で、似ているところっていうのは、

最愛の息子(5歳くらい)を不慮の事故で亡くし、それがきっかけで、その母親が常軌を逸していく…ってところです。

前提で、少し違っているのは、「アンチクライスト」の主人公=妻は、夫とセックスしている最中に息子を亡くしてしまうってことろ。「おしまいのとき」の子供は、単なる事故で亡くなります。

どっちがつらいか…と比べるのも変ですが、「自分が楽しんでいる間に子供が亡くなった」ほうが、「自分が普通に家事をしている間に、遊びに行って子供が亡くなった」よりもつらそうです。

…というか、この差が実は大きな差になってくるわけです。

「アンチクライスト」の母親は、子供の死を自分の落ち度ととらえる。しかも、自分が快楽にふけっている間の事故ですから、自責の念は非常に強い。

そもそも、この映画のテーマはきっとここにあるのだろうと思いました。

アンチクライストと歌っているわりには、反キリストではなく、逆にものすご~く、親・キリストです。

キリスト教的世界観のなかでは、性的快楽は否定すべき対象ですよね。だから、マリアは処女懐胎している。快楽なし(=セックスなし)で、キリストを身ごもる。

なので、この映画のテーマのひとつが、快楽にふけっている間に最愛のものを亡くしたものはどうなるか…ってことなんじゃないでしょうか。

話を先に進めます。もちろん、ネタバレとか気にしてないので、よろしく。

妻は精神病院に入院して、薬物による治療を受けますが、夫(=カウンセラー)が、無理矢理退院させて、「俺が治してやる」という荒療治にでます。

どなたかのブログに、この映画を「盛大な夫婦げんか」と称してましたけど、そういう側面もあります。

この夫の全能感がすごい。俺は医者より偉い、妻のことなんでもわかってる!という自信があるんですね。

で、妻はいやいやながら、夫に従う。で、治療のためと称して、森の山荘でふたりで過ごす。そのうちに、妻の病がどんどん悪化していく…という物語です。

(これ、アンチクライストなんていってますけど、最新医療にまかせて、薬物療法とかしてたら、なおったかもしれないのに。アンチ近代医療って話です、実は。)

妻が悪化していくのは、夫の無謀さもありますが、この妻、もともと、女であること、女である快楽に罪の意識を感じているんですね。

一年前の夏、山荘にこもって、中世の魔女裁判の歴史を調べていたこともあるんです。

ここで、「へえ?」となります。私も中世の魔女裁判を調べたことがあります。自分の映画にも少しだけ、モチーフを使ってます。

当時は、男をかどわかす女や自分の欲望に正直に振る舞った女は「魔女」として火あぶりにされたり、鉄の貞操帯をつけらたりしていたんですね。おお、こわ。

はたして、現代の女性がそのような資料を見たら、「女って罪深いのね。私もそうかな」って思うのでしょうか。

非常に宗教的締め付けの厳しいところで育ったひとならともかく、普通は逆に感じるのではないか。

つまり、女性の快楽=罪とするなんて、なんて、愚かしく、間違った時代だったのだろう、当時の女性たちはかわいそうだったなーって思うんじゃないの?

え、ちがうんですか?

自分も罪深いわ。いずれ、罰を与えられるかしら?って思うの?

どっちが多数派なのか、正直わかりません。

でも、問題は、どっちが多数派かなんか、関係ないと思うんです。映画は統計学じゃないから。

この妻は自責の念と、生きたいと願う自然の欲望のなかで葛藤します。時に激しく夫を求めたり、自慰にふけったりします。同時に、そんな自分を罰しようとする。

自分の欲望と、自責の念との闘いが展開されます。

結果、自責の念が買って、自分で自分の快楽の源(陰核)を切り落とします!おお、痛そう。

どんどん精神が分裂していく彼女は、結局、夫に殺されて、火あぶりにされてしまいます。

罪の意識が彼女自身を壊し、火あぶりに。

おー中世の魔女がたどった道とよく似ています。そして、夫はひとりで森をおりて行く…という結末を迎えます。

え~え~!

ひどく腹が立ちました。何度も書いてますけど、映画とは監督の世界観を提示するものです。

つまり、これって、この監督にとって、快楽=罪なので、いずれ罰=死と苦しみを受けるべしって言っているように見えませんか。

それじゃあ、中世の物語となにも変わってないじゃないか。なんで、そんな宗教画みたいなものを映像化するんだろう。

ここで、「おしまいのとき」に話が飛びます。

同じく、幼い子供を亡くした主婦は、やはり、常軌をいつします。部屋から出なくなり、家事を放棄します。

そんな彼女を救ったのは、見ず知らずの電気屋の青年でした。彼女は、この青年にレイプされることにより、つまり、無理矢理の快楽により、回復の兆しを見せていくんですね。

いや、普通の回復ではないかもしれない。しかし、彼女は、快楽にすがることで、生きることを取り戻して行く。快楽=生きる意欲として描かれている。

そこには、「罪」も「罰」もない。

その読み解きが、やっぱり、作者・三浦大輔氏の希望というか光なんだと思います。

そんな風になっても生きていてよいのですか?という問いへの答えのような気がする。

ひとが人生でもっともつらい経験にあったとき、普通の慰めでは脱することができないとき、そこから抜け出せる手段があるなら、なんでも「あり」なんだと思います。

そして、それは罪でも罰でもない。

「おしまいのとき」は、ギリギリに陥って行く主婦をあわれみながらも、突き放しながらも、どこか優しい、やわらかい視線で包んでいるように見えました。

同じ前提で始まって、この違い。

ひとが生きる、救われるとはなにかを、宗教なき時代にどう語るかってすごく難易度高いですが、おちてもおちても、いいじゃないか。そもそも、人間はそれほど、高貴なのか…と問いかけているように思います。

…ということで、同じような前提で始まった2作品ですが、どちらも悲惨な結末で終わるのですが、一縷の光が見えるのは「おしまいのとき」です。

アンチクライストはいったい、なにをやりたかったのだろう。女(=快楽)を罰する宗教画を描きたかったように思えてならない。映像が妙に詩的で、幻想的ですから。

なぜ、今、それ?という疑問を残しつつ、後味悪く、画面を閉じたのでした。