山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

ハイバイ「ある女」と「恋の罪」

昨日、駒場アゴラ劇場にて、劇団ハイバイ「ある女」を見てきました。

以前より、注目している、俳優であり劇作家である、岩井秀人さんの作・演出です。

この舞台の話をする前に、その前日に、映画「恋の罪」を見たことから始めたいです。

「恋の罪」は奇才・園子温監督による、97年に起こった、東電OL殺人事件を下地にした映画です。

慶応卒で東電という大企業につとめる女性社員が、夜は売春をしていたため、かなりの話題を集めた事件でした。私も衝撃を受けました。

その事件を園監督がどのように描くのがとても興味がありました。

実際には、この事件は解決していませんが、監督なりの解釈があり、映画のなかでは犯人も描かれていました。

(以下、ネタばれありです)

映画の構造は、この事件を追いかける女性刑事の視点によって描かれています。円山町のラブホテル街で発見された身元不明のバラバラ死体が誰のものなのか、犯人は誰かを追いかけます。

被害者として浮かび上がってくるのが、二人の女性。著名な大学の日本文学の教授と、売れっ子小説家の貞淑な妻の二人です。この二人が、どうやら、夜は売春めいた行為をしていることがわかり、その渦中に事件に巻き込まれて殺されたのではないか…と推理されます。

著名な大学の教授=エリート女性ということで東電の事件をなぞっているのだと思います。

物語の詳細はともかく、犯人は、大学教授の母親でした。彼女は、娘が売春をしている行為を許せず、殺した…という結末です。そもそもこの女性が売春を始めたのは、過剰に愛していた父親を失ったからで、売春の背景を父親の喪失と父親との過剰な関係に求めていたように見えました。

そして、そんな彼女を許せなかった母が娘を殺す。

そうか、そういう解釈もあるんだなーと思います。(この母親がとてもリアルで良かったです。)

園監督の作品ですから、全体的に映像が濃く、常に過剰ななにかを伝えてきます。そこでは、「女であること」や「女性性」が強烈に描かれています。

自分も一応女性ですが、もし、自分が子供だったら、「へえ、大人の女ひとって、こんなにエロス中心に生きているんだー」って思うところです。

女=エロス、がデフォルトといいますか、大前提としてある。女とは、第一義的に性的な生き物である、ように見える。そのどうしようもないエロスがあふれてしまって起きる事件のように見受けました。

そんな翌日、ハイバイの「ある女」を見たわけです。

偶然にもこの舞台の主人公も、「普通のOLなのに売春もしていた」女性でした。

こちらは特に東電OL事件から発想しているのではないようですが、似たような物語の展開に驚きました。

主人公のタカコは27歳。ごく普通のOLですが、失恋→転職→不倫から、徐々に売春めいたものにはまっていくのです。そして、果ては命を狙われることになります。

この偶然の一致にまず驚いたのですが、次にもっと感心したのは、描き方が全然ちがうこと。(作家が違うのだから当たり前といったら当たり前だけど)

同じように普通の女が売春にはまる過程を描いても世界観が全然ちがうなーってところです。その世界観の違いが、当然演出にも表れてくる。

まず、ハイバイのすごいところは、この27歳OLを、演出家の岩井秀人さん本人が女装してやっていることです。

岩井さんは30代後半の男性です。そのひとが、売春までしてしまう「女」を演じる。

見た目は全然、女っぽくないわけです。エロスゼロ。

一方、「恋の罪」の女性たちは、全身エロスです。大学教授も身体は細いけれど、エロチックな顔立ち、立ち居振る舞いだし、小説家の妻は巨乳で、エロス全開。なので、画面全体がとてもエロチックになります。

事件の起こる廃墟にしても、エロスの館みたいな、日常からは隔離された、不思議なおどろおどろしい空間のように描かれています。

エロスに導かれた人間だけがたどり着く、未踏の場所みたいに。

ハイバイに話を戻すと、こちらは何しろ、40歳近い男性が、27歳の女性を演じてますから、見た目はちっともエロくない。

だから、脳内で一度、彼女は27歳でエロいんだって転換させないといけないです。

どんなにエロい行為をしても、それほどエロチックじゃない。

それゆえ、逆にこの物語が提示するものが直接的に見えて来る気がする。

タカコは不倫相手との関係から、交換条件としてお金をもらうようになっていく。それがさらに進んで、見知らぬ相手からも金銭をもらって、セックスするようになる。

この売春にいたる過程が、日常生活と地続きなんですね。特別の大きなジャンプがなく、するするっとその世界へ入って行く。強烈な事件も罪悪感もないままに、売春することになってしまう。

売春する…っていちいち書くと、特別な出来事みたいに感じられますけど、そこで行われる行為は、いわゆる愛の行為となんら変わらないわけです。そこにお金が介在するだけで。

この地続きの感じ。罪悪感のなさ。そこら辺がとてもリアルだと思いました。

男が(おじさんが…と岩井さんは言った)演じているのに、タカコの存在がとてもリアルなんですよね。

「あーあるある」って言いたくなる。「わかるわかる」って。

こうして、結果的には「売春」をすることになってしまうのね…ということが、無理なく理解できる。

「売春」っていうのは、言葉を与えただけで、実際は、ただのセックスなんですよね。

このただのセックスなのに、過剰に意味を与えてしまうこと……過剰に意味を与えられてきたことが、かえって浮き彫りにされた、と私は思いました。

それはそんなに特別なことだったのか。命を奪われたり、憎まれたりしないといけないほどのことなのか。

男にとって、買春が単にお金を出して女を買うだけの行為であり、それによって、人生が狂ったり、誰かに命を狙われるほど憎まれたり、精神をおかしくするほどの行為でないように、女にとっても本当は同じことなんじゃないか。

女にとってだけ、「性」がそれほど過剰なことなのか。

そう、問いかけているように思う。

売春という言葉がイメージさせる罪悪感の根拠のなさを笑いながら見破ったこと、それが、ハイバイの「ある女」の痛快さだったと私は思いました。

しかしもちろん、今でも売春を憎み、罪深いと感じるひとが大多数であるし、だいたい、法的にも罰せられますから、それはそれでいいんですが、しかし、法律なんて、いつもあとからついてくるものだから、現実はとっくにその罪深さを越えているのではないか、少なくとも今の日本の女性たちにとっては。

そんなことを思いました。