山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

嘘が生む本当

ここ最近、ずっと考えていること。

それは、「虚構の自由度」についてであります。

自分はどちらかというと、リアリティあふれる作品が好きです。

ファンタジーとかSFよりも、日常が日常的に描かれているものが好きです。

自分が書く場合も、なるべく、リアリティを獲得できるように気をつけています。

それって、本当にありえるか、人間はそのように考え、振舞うのか…と突き詰めて考えます。

が。

時にそれがしばりとなり、結果的に、確かにリアルだけど、リアルだからって、真実かってなるとどうなんだろう…と思うことがあります。

そこで、「虚構の自由度」ってやつですね。

ある種の虚構…つまり、ありえないこと、ありえない前提を作ることで、かえって、自由に創作できて、その結果、そこで描かれている「なにか」がリアリティを獲得するということです。

たとえば、「ムーミン」。

森に暮らす妖精のような、架空の生き物たちが主人公です。

実際にそんな生き物は存在しないけれど、だからこそ、その架空の物語のなかで、「真実らしさ」「本当に思えること」が描ける場合がある。

ムーミンはアニメーションですが、実写でも充分ありえる。

たとえば、人間には翼があって、空が飛べると仮定して、それを基盤としてドラマを作る。あるいは、同じ人類のなかに、「翼のある種類」がいると設定する。

実際、翼があって空を飛べる人間はいませんが、そのような人間たちを描くことで、飛行機との接触やら、ちがう種にたいする差別意識やら、「空を飛ぶ」=自由という短絡的なイメージの破壊やら、通常の設定では描くことが難しいことが、さらりと言えてしまったりする。

なので、「虚構」とは、自由を広げるものなんですね、表現においては。

でも、一方で、自由を広げるからこそ、物語を作りやすくするというマイナスもあると思う。

たとえば、そのままではつまらない設定や物語であっても、「ありえない事件」を起こさせたり、「ありえない人物」を登場させることで、にわかに、ドラマチックに盛り上げることができる。

よく使われる手としては、「突然、誰かが事故で死ぬ」とか「幽霊が現れる」とか、「超能力を身につける」とか「宇宙人にさらわれる」などいろいろあるわけです。

ごく普通の家庭であっても、そこで誰かが突然死んだり、宇宙人が現れたりすれば、それでドラマは動きますからね。

盛り上げやすい。

なので、安易に「虚構」を使うことは、よくないとは思うのです。

使うなら本気で使わないとね。

…いえ、だからどうだって話なんですが、今後のテーマのひとつとして、この「虚構」を使うことによって、自由度を広げてみたい…というのがあります。

安易にならないように気をつけながらね。

…ということで、なんとなく感じたことでありました。

昨日は、東京工芸大の公開講座で作ったドラマのミニ打ち上げを自宅でやりまして、各俳優人たちからいろんな話を聞けて楽しかったです。

ここまで含めて勉強になったな。

自分のなかで、「リアリティ至上主義」みたないところがあったんだけど、最近、そうじゃない方法に興味を持ち始めまして、先日の講座はリアリティにこだわりすぎたので、そこらへんについても考えていたのでした。

そんなわけで、2月。