山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

代理母と売春。

NHKで放送していた「マイケル・サンデル 究極の選択 お金で買えるもの 買えないもの」(2月18日オンエア)を録画してありまして、昨晩、見ました。

基本的なテーマは、「命に値段はつけられるか。命はお金で買えるか」ってことでした。

民営化した消防サービスは、お金を支払っていない人の家が燃えても消火しなくていいのか、とか、

成績のいい子にお金を支払う学校があるが、それは許されることなのかどうか、などが話しあわれました。

なかで、引っかかってしまったのが、「代理母」問題。

インドには、7000$払うと子宮を貸してくれて、母胎と関係のない男女の受精卵を宿して、子供を産んでくれるサービスがあるそうです。

女性たちは10ヶ月、その施設で過ごして出産するそう。子宮を貸すのは、貧困層の女性が多く、生きていくためにそのようなビジネスを引き受けているそうでした。

そこまでシステム化されたものがあることにも驚きましたが、技術的には可能になっているのだから、そういうサービスがあっても不思議ではないはずでした。

で、番組では、これを是とするか否とするか…という論点で話しあわれたのですが。

なかで、ハーバードの女子学生が、「代理母は売春と同じで、女性を搾取し、女性の品位をおとしめるものだから、不当である」と意見を言いました。

そうか、そう言われたらそうです。子宮を貸す代理母と、体全体(膣も含む)を貸す売春は、体を貸すという意味では原理的に同じかもしれない。

それを見破った女子学生、さすが!と思いましたが、一方で、彼女は売春にも代理母にも反対なので、そこらへんは私と意見が異なりました。

すると、日本のタレント(シェリーさん)が、「売春と代理母を一緒にするなんて、代理母に失礼。彼女たちはそのお金で勉強したり起業したりするんだから」と言い出しました。

ほう、そう来るんだ…と思った次第です。

たぶん彼女は、「子供を産むこと、母になること」は美しいこと、意味あることであるのに対して、売春は、汚れたこと、よくないこと…と考えているのだろうと思います。わりと一般的な考え方かもしれません。

しかし、ハーバードの女子学生(インド系)も負けておりません。

売春、セックスを売ることで、その相手を幸福にすることもできるのだから、体の一部を売って、快楽ー幸福を売るという意味では同じだ…と言い返しました。お見事です。私もそう思います。

なので、「母」なる行為をお金で代理で行うことは、是であり、性的に「女」である行為をお金で代理で行うことは、否である、というのは、矛盾しているなーと思います。

どっちもダメか、どっちもokじゃないと…。

だって、母なる行為って、性的に女である行為の延長線上にしか、あり得ないわけですから。

いやー、マリアじゃありませんが、「処女懐胎」願望って案外、根強いのではないか…とびっくりしました。

自分はですね…こういう問題って、「自分はどう思うか」ってことが大事ですよね。

主体的な売春については賛成なんです。いつも思うんですよー、どこからが売春なのかって。お金を支払ったら売春ですが、現金じゃない場合は売春と見なされない。けど、広義の売春的行為はどこでも行われているのだから、キャッシュだけとがめるのもどうかと思う次第です。

ただ、「主体的」かどうかにひっかかります。本人が納得してやるならいいと思う。だから、18歳以上とか。
まだ、善悪の基準も主体性もない幼女を対象とした売春はダメだと思っております。

しかし、この「主体性」ってものも、けっこう不安定なものではありますが、たとえば、女子高生の間で援助交際が流行れば、はやりでやってしまう子もでてくる。それも彼女が選らんだなら、「主体的」ってことになるけど、本当に主体的かどうか、曖昧ではある。

まわりがやっているから、私も!…というのを主体的選択と言えるのかどうか。

(日本の同調圧力の強さは半端じゃないですからね)

けど、そんなことを言い出したら、人間の選択なんて、どこまでが主体的かなど決められなくなるので、とりあえず、18歳以上ならアリだと私は思っております。

で、代理母。こちらも主体的ならokだと思う。

ひとつには技術的に可能になってしまっていると、禁止しても必ずどこかで行われ、闇に入れば入るほど、被害を受けるひとが増えると思うから。だったら、管理された環境で白日の元に行われたほうがいいと思う。

そのほうがいらぬ偏見や罪の意識を生むことが少ないのではないかと思うからです。

代理母をやとってまで、自分のDNAを持った子供がほしいとは、私は思わないけど、それを渇望するひとを止める哲学を私は持っていない。私はやらないけど、やるひとを責めない。

…といったところです。

「女性は搾取されている、そのことによって、品位を落とす」という意見が、アメリカの女性から出てくるところが新鮮でした。搾取…って言葉を女性に使うひと、日本だとかなり少なくなってしまっているのではないかしら。

この世にはお金で買えないものがあり、お金で買ってはいけないものがあることは知っている。けど、それに歯止めをかけることって果たしてどれだけできるのだろうか。

できずに闇商売になるより、基準を決めたほうがいいように思うのです。今の私はそう思っている。

売春はどの国でもどの時代でもあるとしたら、それを認めて、そこにまつわる、物語、解釈について、クリアにする方がいい。逆にお金で解決できる問題なのだ…ということで、問題そのものを軽くすることができるのではないか、という逆転の発想もあるのだ。

…というのは、今日、韓国映画「ポエトリーアグネスの詩」を見ました。これは、数年前韓国で起こった、10代の女子学生が、同じ学校の男子数名から数ヶ月にわたってレイプされていたあと、自殺した事件をベースにした映画です。

映画そのものはともかく、この事件のことを再び思い出し、暗澹たる気持ちになったのです。

つまり、レイプされていた女子学生は、本来になら怒りをぶつけるはずの男子学生を告発することなく、「そういうことをされた自分」に耐えられず、命を絶ってしまったわけです。亡くなった彼女の気持ちは本当のところはわかりませんが、レイプされたこと=致命的なこと、という解釈そのものが、彼女を追い詰めた部分があると思うからです。

女性がそういう行為を受けた場合、回復不可能である…身体的暴力以上に精神的に打撃を受ける…ことは事実なんですが、そこに、常に「回復可能である」という強いメッセージを発することも必要だと思うわけです。

いってしまえば、「お金で解決できるくらいの問題なのだ」と言い切ることで、絶望から生き返ることだってできると思うからです。

もちろん、実際の体験による傷は深いと思うのですが、いわゆるセカンドレイプというか、「それは回復不可能なほど、あなたを汚した」という解釈はさらに被害者を追い詰めることになると思うから。

売春、代理母にもつながっていくんです。女性限定とまでいいませんけど、女性についてまわる問題だからです。

私は、売春しても代理母になってもレイプされても、決して汚すことのできないものが、ずっと存在し続ける、本人はなにも変わらない、その価値に傷をつけることはできない、決して…ということをおさえておきたいんです。

そんなことでは、ひとを汚すことはできない。ということを言いたいのでした。