山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

死に行く犬を前になにができるか。

先日、関東地方にある某動物愛護センターに行った。

初めてのことでした。

とあるボランティア団体の方たちが、センターから犬を引き取るのに同行し、見学させてもらった。

ゆくゆくは撮影をするつもりだけど、まずは、見ておこうと思って。

正直、勇気がいった。

愛護センターがなにをするところかは知っているから、つまり、引き取り手のない犬が処分される場所だから、それを見るのが怖かった。

怖いというか、辛いというか、その現実に自分が耐えられるかどうか。

でも、想像していたより、施設は恐ろしい感じではなかった。ボランティアの方たちによると、ここ半年くらいでも随分改善されたそうだ。

それでも、収容されている犬たちはどれも悲しそうで、吠え続けるものもいるけど、たいていは体を丸めて、じっと耐えている。

耐えているというか、諦めているように見えた。

そして、どの犬も極端に痩せていた。放浪しているうちに痩せたのかもしれないが、センターに来てから食欲をなくして、食べない子もいるようだった。実際、ドッグフードが残っている場合もあった。

ボランティアの方たちが、引き取り手(里親)の見つかりそうな犬を見ていく。ケージからだし、人間と触れあうことができるか、何歳くらいか、などを調べていく。

飼い犬だった犬は、人間に慣れている場合が多いから、救われる可能性も高い。

ただ、飼い犬であってもその後、あまりに人間にひどい仕打ちをされた場合、それがトラウマになって、ひとに馴れないこともあるそうだ。

そのあたりを慎重に見ていくのだ。

野良犬で成犬になった場合は、厳しい。人間に馴れる可能性が少ないからだ。

そうするとどうなるのか。

処分である。処分とは死のことである。

あーつらい。

どうして何も悪いことをしていないのに、生きることができないんだろう。

犬はもはや、引き取り手…世話をする人間がいなければ、生きることのできない動物になっている。

そうしたのは人間だ。

けど、そうやって、そうした人間を批難していても仕方ない。私もその人間の一人であり、その犬をすくうには私が引き受けてやるしかない。

批難すべきは私自身だ。

引き取り手のない犬を見るのがつらかった。なにもして上げられないからだ。

あやまるしかなかった。

しかし、ボランティアの方たちはえらい。本当にえらい。頭の下がる思いだ。

少しでも生き延びる犬を増やそうと、熱心に犬を見て、引き出すのだ。

感傷的になって、引き取り手のない犬を無理矢理出したりしない。ちゃんとワクチンを打ち、飼い主が育てられる犬を選ぶ。

もちろん、全頭助けたいのは山々だけど、ムリをして破綻するようなマネはしない。

なぜなら、たくさんの犬を引き受けて、結局、それが崩壊する現場を数々見て来たからだという。最初は善意で始めても、続かなければ悲惨なことになる。

犬は生き物であるから、10年、15年先まで見越さないといけないからだ。

そういうことを見学しながら、取材していく。

取材する自分と、ただただ、捨て犬たちがかわいそうでならない自分が交錯する。

「文学は、飢えた子供の前で何ができるか」

というサルトルの言葉ではないですが、

「殺される事が決まっている犬の前で、何が出来るか」

という問いかけを自分にしています。

で、自分なりの答えは、とりあえず、できることをする…ということで、引き取れる犬は引き取り、少しでも捨て犬が減るように、映像にしようとする…というものです。

それは文学とはちがうかもしれないけど、自分にはそういう風にしか考えられない。

実際に行動するまでにずいぶん、時間がかかった。

まず、捨て犬たちの事実を見るのが怖かった。できるだけ見たくなかった。

そして、それを知っても何ができるんだろう。自分はそういうタイプ(福祉的な行いのできるタイプ)ではないのだから。

けどね。ちょっとずつね、「なんとかしよう」の世界に近づいています。ほんと、ちょっとづつですが。

ということでまだ、始まったばかりなのですが、だから、何も書かずにおこうと思っていましたが、そのことばかり考えてしまうので、書くことにしました。

犬に恩返しをしたいし、それほどの生き物が無駄に命をなくすようなことがないようになったらいいと思ってます。