山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

『毒婦」再び

「毒婦」の感想を読みに来る方が多いようなので、続編を書いてみたい。

前回も東電OLとの比較をしたけれど、木嶋容疑者と東電OL(被害者ですが)、共通点は援助交際以外にもあると思う。

それは、どちらも「父の娘」であること。

「父の娘」というのは、父から、まるで「息子」のように愛され、期待されて育った「娘」のことを言う。

「女の子は勉強しなくていい」とか「女だから生意気言うな」とかいっさい言われずに、まるで「少年」を育てるように、すくすくのびのび育てられた娘をさす。

この「父の娘」というのは、社会に出て成功している女性に多い。

父ー男…というのは、「社会」であるから、社会から期待され、愛されて育った娘は、社会への適応力…いってみれば、男、おじさんへの適応力が高く、うまくやっていける。

さらに、父親に承認されて育つから、「自分は愛される価値のある人間である」という自信を身につけやすい。

ので、社会にでて、成功しやすいのだ。知り合いの偉くなっている女性のほとんどが、この「父の娘」だ。

なぜ、そんなに詳しいかって、自分が、圧倒的に「父の娘」ではなく、「母の娘」でもない、アウトサイダーだからだ。だから、よおおくわかるのね。「父の娘」たちの天真爛漫な根拠なき自信を常々うらやましいと思って生きてきたのだから。

話を「毒婦」に戻す。彼女もまた、「父の娘」だった。母親とはうまくいかなかったらしいが、父との関係は良好だったようだ。北海道の小さな町ではめずらしく、東京の大学を卒業し、おしゃれでクラシック音楽をたしなむ父親だったらしい。

狭い世界で父親を尊敬して育ち、なおかつ、全的な愛情を注がれたら、常に「どこにいっても自分は愛されて当然、求められて当然」という気持ちになるんじゃないだろうか。

それが過剰な場合は、たとえ、犯罪行為をおかしても、「私は間違ってない、私は悪くない」と思ってしまうんじゃないか。

「父の娘」はいい方向に進めば、社会で一定の地位を得るなど成功するけど、まちがった方向に進むとなまじ、根拠なき自信がある分だけ、ゆくところまでいってしまうんじゃないか。

そんなことをアウトサイダーの自分は思う。

(しかし、父の娘にもマイナスはあって、父親をすばらしいと思うあまり、そこそこの男性で満足できなくなることだ。父のように自分を愛してくれる男性はなかなかいないからである。絶世の美女ならともかく、父ほどの娘を「かわいい」と言ってくれる男性は少ない。

だから、あまり美しくない「父の娘」は、男捜しに苦労することが多い。父から受けた自己評価と、普通の男性から受ける客観評価に、天と地ほどの(大げさか…)差があるからだ。

そこらへんは、父の娘でも母の娘でもない女性は、自己評価が低いので(=わたし)、高望みせずに、相手を見つけることができる。

これくらいメリットあってもいいよね?…余談終わり)


それからもうひとつ。東電OLと重なるけど、この二人はとても仕事熱心だったということ。

仕事とは売春だけれども、これまでの娼婦だったら、強制的に働かされている場合はともかく、お金がなくなったら、体を売るが、あとはだらだらと遊び暮らしていたんだじゃないか。

けど、彼女たちは違う。まるで、仕事のように効率よく、マメにお客さんを探しているのだ。

「毒婦」によると、佳苗容疑者は出会い系サイトで知りあった男性たちにかなりマメにメールを返していたらしい。しかも、相手にあわせて行き届いた文面を送っていたらしい。

この奇妙なまじめさ。

ここらへんにも新鮮さを感じる。

日本の悪女の歴史を塗り替えた…というか。

そんなわけで、続編でした。