山田あかねの一喜一憂日記

テレビディレクターをやりながら、小説書いてます。映画も撮りました。脚本なども書いてます。 本、買って下さいね。

レモネードを作ろう…でいいのか?

最近、思考がばらけ気味である。

ばらける…というのは、どっちがいいのかわからないなーって思うことである。

たとえば、だいぶ前に読んだ小説に「レモネードを作ろう」というのがある。

アメリカのティーン向けの小説で、登場人物のひとりに貧しいシングルマザーが出てくる。

充分な教育も受けずに、若くして母親になり、小さな子供を抱えて食べるにも苦労している黒人の女性である。

子供の父親だった男性は働かず、責任もとらず、簡単に彼女を捨ててしまう。

あるとき、このシングルマザーは子供たちになにか食べさせようと買い物に行く。が、手持ちのお金で買えたのは、レモンひとつだった。

こうしてレモンひとつを持って帰って来たシングルマザーは、このレモンを使って、美味しいレモネードを作る。これを子供たちと分けて飲み、「ああ、美味しい」と思うわけだ。

いろいろ不幸だけど、こんなに美味しいレモネードがあるなら、明日からも頑張っていけるよね、とレモネードに希望を見いだすのである。

そんなエピソードが出てくる。

ずっと昔に流行った、「一杯のかけそば」のような話ではある。

(レモネードの方が、もうちょっと上品だけど)

これを読んだ時、私が感じたのは、「一杯のレモネードで満足して、しあわせ」とか言ってる場合なのか?ってこと。

レモン一個しか買えないほどの貧困、子供の養育に責任を取らない父親、教育を充分に受けられないような行政の弱さ、など、怒りや間違えを訴え出て、環境を変える努力をすべきなんじゃないの?って。

それを、「お母さんの作った一杯のレモネードがあれば、しあわせだよね」って納得して、本当の敵、本当に闘わないといけなものをごまかして生きていくのは違うだろう、それをあたかも「良きこと」として物語りにするのはちがうだろう…と思ったのだ。

自分らしい正義感として。

けどさ。

もちろん、今でも、「レモネードで満足してるんじゃねーよ」という気持ちもあるけど、レモネードでとりあえず、満足する……というのも「あり」なんだ、ということを考え始めている。

誰もが世界を変えたり、正しいことを主張して生きていけるわけじゃない。

自分から行政に働きかけたり、責任の所在をはっきりさせたり、そういうことができるひとはそんなに多くない。

弱くて自信がなくて、ひとからつけいられやすいからこそ、レモン一個になってしまうんだよね。

そういう人に向かって、「目を覚ませ、闘え」というのがいいとことなのかって。

そのまま、レモン一個でしあわせ…と言っているひとを揺らす権利なんかないよね。

「ニートの歩き方」を読んでから、だらだらしたいのなら、したままでもいいのではないか…という考えに傾きつつある。

だって、「レモン一個はおかしい」と闘って、すっごいいやな思いして、また、破れて、へとへとになるより、なんとかレモン一個を手に入れる努力くらいで、生きていければ、それも「あり」なんだってこと。

そういうことを最近、考えています。

ホントに、レモン一個でいいのか?